風呂の湯に撃沈
葉月の不安 2
「あの~」
あたしはつっけんどんに女湯のほうを見ながら
「なんですか?」
先輩から顔は見えないと思う。
「おつり~」
なんと、あたしとした事がおつりを渡し忘れているなんて。
急いで小銭を渡すとなおも女湯に顔を向ける。
いつも来るわけじゃないから、お風呂券とか持ってないんだわ。
あせったぁ~。
先輩はくるりと背を向けるとおじいさんに向かって
「じいちゃん、ゆっくりね。お風呂はゆっくり入ろうね」
と肩を抱くようにして奥のロッカーの裏に消えていった。
ふぅ~、あせった。
そうかこの間先輩、『夢の湯』から出てくるあたしを見たって言っていたっけ。
なんでこんなに早い時間から銭湯なんか来るんだろう。
ああそうなんだ、おじいさんか。
あの白い髭のおじいさんの孫なんだ、先輩は。
なんだか、今日は番台に座った短い間にいろいろな事があったぞ。
ちょっと待って。頭が混乱している。整理しなくちゃ。
え~と、え~と、あたしは夢の中で二十年以上前の世界に、行ったんだ。そこではおじいちゃんが生きていて、番台に座っていて、パパが卒業間近の高校生だった。
そして、ママもパパと同じ高校生で。桜の花が満開だったな。
でもその花よりもずっときれいだったよ、ママ。
あたしは自分の中に無いママの姿が見られた事にものすごく胸の奥があつくなっていた。
若いママ、あたしの知らないママ。
そこであたしはふとある事に気がついた。
これってもしかして夢とかじゃなくて、この番台が昔の世界とつながっているんじゃないんだろうか?
だって、この間の時もそうだったけどあたしが生まれる前の世界だったし、今の銭湯の感じとまったく違った世界だった。
なんかこう活気に満ちているって言うか、みんな楽しそうって言うか、人々が親しげな誰に対してもあったかい感じ。
おばあちゃんがよく言っている、「昔は近所の人みんな親戚みたいに仲が良かった」って、そんな空気だったよ。
あたしは、そんな空気に触れることなく生きてきたような気がする。
パパやママが育った頃は、あったかい世界だったのかな?
ここであたしはもう一つ気がついてしまった。
そうだ一番最初に見た昔の世界の中で会った男の子、あたしと同い年くらいの。
あれはパパだったんだ。そう、さっき見た高校生のパパの面影がしっかりあったじゃん。
またまた気がついた。
あの時、少年パパが待っていたのはきっとママだ。ママは中学生の時に、近所に引っ越してきたって聞いたことがあるもの。
パパはその時からずっとママのことが、好きだったんだ。
あたしは自分と同い年の男の子が恋する気持ちを身近に感じて、にやついてしまった。
ふふ、なんだか、おかしいな。
パパはママに会ったときからママに恋して、そして二人は恋人同士になるんだ。
「なに、にやにやしてるの、しいな~。椎名だろ?」
あたしは、驚いて飛び上がりそうになった。
誰があたしの名前を呼んでいるのかと、顔を上げてもう一度飛び上がった。
しまった。うっかり番台を降りるのを忘れてた。
先輩が出てくる前におばあちゃんと交代しようって思っていたのに。
目の前にいたのは、増尾駿矢、湯気が身体からほかほかと立ち昇ってつるつるの顔で笑っている。
「あ、あの」
つまって何も言葉が出てこない。どうしよう、ばれちゃったんだ。何て言おうか。
「ここ、椎名の家なんだ。家の手伝いしてるなんて、えらいじゃん」
先輩は感心したように、うなずいて番台をきょろきょろ見回している。
「い、いえ。おばあちゃんの家です。あ、あたしの家は近くのマンションで」
あたしは、いらない事まで口走っている。
やばい、あせって何言い出すかわかんないよ。
「なんで変装してるの?誰かと思っちゃったよ」
にぃっと微笑んでみたけど、あたしは凍りついちゃっている。
変装って、確かに変装かもしれないけど。
どうしよう。何て説明したらいいかな。
頭はすでに真っ白でまったく回転を停止してしまった。
「うはっ!おもしれぇ~、その顔おもしろいよ。はははは」
笑われた。ほかほかの湯気の先輩にカチンカチンの凍ったあたし。
「その髪もいいけどさぁ~、いつもの椎名の方がかわいいよ!あ、でもばれると恥ずかしいのか。だから変装なんかしてるんだ。なるほど」
勝手に納得している先輩は
「ごめん、椎名。これくずしてくれる?」
と言ってあたしの手に五千円札を載せた。
「おじいちゃんに飲み物を買ってあげようと思ったらさ、これしか持ってなかったんだよね」
あわててがさごそと引き出しから、千円札と百円玉を取り出した。
間違えないようにゆっくり手渡す。
やっぱりおじいさんなんだ。
でも、一番最初に見たおじいさんの感じからすると、とっても年取っちゃって一回りも二回りも小さくなっている。
だけど、ほかほか湯気をたてながら籐の椅子に腰掛けている姿は、昔のままで幸せそうだ。
「先輩のおじいさん、近所に住んでるんですか?」
やっと頭が動き出した。
「うん、かあさんのおとうさん。今俺んち改装中でさ。おじいちゃんの家に泊まってるの。椎名、今度遊びに来いよ。職人さんがたくさんいて面白いぜ」
職人さんって大工さんかな?
あ、そうだ。受験は?先輩受験勉強できるの、そんな仮住まいで。
「受験、まだ終わってないんですよね?」
先輩はかいていた汗を拭きながら言った。
「あれ~、椎名知らなかったの?俺一応推薦が通っちゃったんで、高校決まってんだ。岡達には悪いんだけどさぁ~」
困った顔になって頭をぼりぼりかいた。ほかほかのつるつるのやさしそうな笑顔。
「そ、そうなんだ」
先輩の笑顔に見とれていたあたしは、自分にはっとした。
やだな、どうしたんだろう?
今日はなんだかいろんな事があったような、なんて長い二時間なのかしら。
先輩はおじいさんを気遣いながら、手を振って出て行った。
あたしも微笑んで手を振っていた。
その晩、夕食の時パパに聞いてみた。
「パパってママと、夢の湯の前でよくデートしてた?」
パパは見ていたテレビを消して、ものすごくうれしそうにあたしの方を見て答えた。
「そうそう、銭湯の前のベンチでよく別れがたくてずぅ~っと話し込んでたんだ。そしたら、近所中に知れ渡っちゃってな。いや~、参ったよほんと」
あんなとこで、ずっと話していたら知りたくなくてもわかっちゃうじゃんか。あほらし!
「ママの家、おとうさんと二人っきりで住んでたから、あそこに座ってていろんな人と知り合えて良かったって、いつも言ってたんだ」
ああ、そういえばママのお葬式の時、ママ方の親戚って少なかったっけな。
ママって家族少なかったんだ。
「高校三年のとき、近所の人達が言うもんだから、『ミスさくら』に出てみたら見事優勝だもんなぁ。ママは本当にきれいだったんだぞ!」
うん、確かに写真なんかよりずっときれいだったよ。
でも、なんであんなきれいなママがこんな何のとりえもなさそうな男の人選んだんだろうね。
自分の父親だから言うわけじゃないけど、世間一般からしてうちのパパって顔がいい訳でもないし、頭が特別いい訳でもない。
目立たないっていう感じかな、一言で言うと。
しかも今、その美しい奥さんまで失っちゃったんだから、もっと目立たなくなっちゃったんじゃない?
「それから、笑うとすごくかわいいんだ。近所からは『桜小町』なんて呼ばれてたっけ」
ああ話題にしたあたしが間違いだった、ママの話はタブーだった。
パパは話し続けるに違いない。
だんだん右の耳から左の耳へと抜けていく。
「あ、いけな~い。宿題があったんだっけ」
あたしはさっさとお皿を洗って自分の部屋へ向かう。
パパはまだ話し足りない様子で、がっかりしてテレビのスイッチを入れた。
黙ってあたしたちの会話を聞いていたおねえちゃんは、くすくす笑いながら、キッチンの後片付けを始めた。
その日は公立高校の発表があるので、先生も皆どことなくそわそわしていた。
あたし達も三年生になったら、こんな気分で過ごすのかと思うとため息がでちゃう。
「なに、ため息ついてんの?葉月!」
平山夏香は、今日も元気一杯って顔で寄ってくる。
「岡先輩、どうだったかなぁ~受かってるといいんだけどなぁ~。桜散るだったらどうしよう。なんて言って慰めたらいいんだろう。ううん、絶対受かってる!間違いない!」
相変わらず、一人でいろんな事を言って納得している。
ついつい、夏香のペースに巻き込まれて、あたしは笑ってしまう。
空はどんよりと厚い雲におおわれて、今にも雪がちらちら降ってきそうだ。
寒くて冷たい、こんな時期になんで受験ってあるんだろうか。
つらいこの次期をやりすごせば、春が来るなんてナンセンスじゃないのかしら。
桜の花は咲いていたって散る時だって美しいと思うのに、こんな合否に使わちゃって気の毒だよね。
寒くて凍りそうな校庭をチラホラと三年生が、報告の為に歩いてくる。
関係の無い学年までどこか緊張の糸がはりつめている。
「なつか~、岡先輩。サクラサクだったって~」
クラスメートの田嶋あおいが、夏香のところに駆け寄ってきた。
わぁ~っと声を上げて飛び上がる夏香。
一緒に喜ぶあおいと手を取りあってぴょんぴょん跳ねる。
「よかったね~、夏香。あたし達もがんばって岡先輩と同じ学校に行こう!!」
いつから田嶋あおいは岡先輩ファンになっていたのか?
同じクラスだけれど、クラブは確かソフトボール部だ。
「うぇ~ん、はづき~よかったよ~」
夏香があたしの胸に飛び込んできた。
なんだか、かわいい。
本当に岡先輩の事心配してたんだね。
あたしは、らしくもなく夏香の頭をいい子いい子しながら笑った。
「よかった、よかった」
田嶋あおいは、急に表情が硬くなって立ち去ってしまった。
「田嶋さんも岡先輩のファンだったんだ」
本当に涙ぐんでいる夏香に聞いてみた。
別にどうでもいい事だけど、妙にあたしを見る目が気になったから。
「ううん、最近岡先輩の事、いろいろ教えてくれるんだ。家が近くでおにいちゃんが一緒のクラスなんだって」
そうか、三年生のお兄さんがいるんだ。
「岡先輩と同じ高校にお兄さんも行くって言ってたし、あれ?お兄さんはどうだったんだろうね。一緒に高校行きたいって言ってたから、合格ってことかな?お兄さんすごい頭いいらしいから」
それから夏香は、いつにもなくハイテンションで一日中笑いっぱなしだった。
つられて、あたしまでおかしくなっちゃった。なんだか、すごく楽しい一日だった。
それから数日後、校庭を使える部活の木曜日。
ハードルを出していると一人二人と三年生が顔を出した。
みな、トレーニングウェアで部活に参加するようだ。
岡先輩も増尾先輩の顔もある。
身体をほぐしてストレッチが終わると軽く校庭をランニングする。
冷たい硬い土の上を自分の息を確かめながら走る。
一定のリズムにのって声をかけながら走る。
身体は冷たい空気を感じながらも、芯からあたたかくなってくる。
この頃のほぐれてきた感じがあたしは好きだ。あたしって、やっぱり走るの好きだったんだなぁって思う。夏香に感謝しなくちゃな。などと思いながら走っていた。
その後、ダッシュ練習とか短距離のタイムを測ったりして、三年生は久々にのびのびしていたようだ。
あたし達も、何本もダッシュ練習して身体はほかほか温かくなっていた。
岡先輩が走る姿を真剣に見ていた夏香は、
「久しぶりに、先輩の走る姿かっこい~!」
なんて言ってうっとりしている。
岡先輩と増尾先輩はかなりいいタイムを出しているにもかかわらず
「だめだぁ~、なまってる~」
「足が素直に上がってくんねぇよ!」
とか言ってへたばっていた。
他の三年生も同じようにきつそうだった。
みんな、最後はくたくたになってトラックの真ん中に転がっていた。
ふと、思い出したように岡先輩が言った。
「汗かいたな。風呂入りたいな」
他の三年生も言い出した。
この間と同じような会話が始まって『夢の湯』の名前まで出てきた。
あたしは、別にもう受験も終わったことだし入りたかったら勝手に入りな、と思っていたのに。
「あ~、で、も~、ちょっと遠いかもよ~」
増尾先輩が口ごもっている。
チラッとあたしの方を見た。
へっ、あたし?
あたしはぶんぶんと首を振った。
増尾先輩は今日もあたしが番台に座るのかと思ったみたいだ。
あたしは、どうぞと手のひらを差し出す。
ああ、という感じで増尾先輩はうなずいた。
伝わったみたいで、声をあげた。
「じゃ~、これから行くかぁ~!」
女子からも行きたいコールが始まった。
夏香があたしに
「葉月もいこうよ~!」
と甘えた声をだす。
冗談じゃないよ、いくら変装してなくたっておばあちゃんの友達に会ったらまずいでしょ。
あたしは首を振った。
「いいよ、行っておいでよ」
岡先輩が大きな声を出した。
「じゃ~、『夢の湯』行くやつ集合~」
その時だ。トラックを走っているソフトボール部の中の一人が手を上げた。
「は~い!私も行っていいですか~?」
クラスメートの田嶋あおいだった。
にやにやしている。
陸上部の輪の中に入ってきて驚くような言葉を口にしたのだ。
「椎名さんが番台に座ってるから、みんなタダにしてくれるよね~はづき~!」
ひっ!夏香が驚いた顔をしている。
みんな驚いた表情。
女子の「番台ってな~に?」と言う声と視線。
増尾先輩だけが、まずい、という顔。
「あ、あたし。あ、あの『夢の湯』は」
固まっている。
なんでそんな事知ってんの?
ああ、なんて言おうか。それより、夏香の顔。
どうしよう。別に聞かれなかったし、だましていたわけじゃないし。
頭がぐるぐるまわっちゃう。
「ば~か!タダの訳ないだろ!おばあさんの家だからたまに手伝ってるんだろ」
増尾先輩だ。
「いつも、座ってるわけないだろ!家の手伝い頼まれた時だけだよな」
すると、岡先輩が
「よ~し!金払って『夢の湯』行くぞ~!」
この言葉にみんなの金縛りが解けた。
助かった。
田嶋あおいは、くるっときびすを返して走っていってしまった。
夏香だけが真っ白い顔をしていた。
腑に落ちないと言うふうに、何かを考えているようだった。
あたしは何て声をかけていいかわからなかった。何も言えなかった。いつもの笑顔が夏香から消えていた。
ばらばらとその日は解散になりあたしも校庭を後にしたけど、三年生が中心にその後『夢の湯』に行ったようだった。
おばあちゃんから後で聞いたのだけど、増尾先輩と岡先輩はきちんと挨拶をしてきたって。
ああ、それにしてもなんであいつは知っていたんだろう?
性懲りもなくあたしは変装して番台に座っていた。
おばあちゃんはもうかなり年だし、けっこう番台に座っているだけだってきついのだ。
たくさんの人が使う場所は、いつでもきれいでなければならない。「ほこりやごみが散らかった場所じゃ気持ちも休まらないよ」と言ってはせっせと片付けている。
本当に人はちょっと見ないとごみは捨てていくし、出した籠を元に戻さない人も多い。
その都度おばあちゃんが片付ける。
普段の日は、常連さんが多いからそんな事はあまりないそうだ。
けど、日曜日は普段来ないような人が来る。
だから、あたしは結構役に立っているらしかった。
あんな事があったから番台に座るのはちょっと気が重かったけど、あたしじゃおばあちゃんみたいに気が回らないからね。あたしができるのは、やっぱ番台だけみたい。
あの次の日、金曜日一日中夏香はあたしの目を見なかった。いつもの笑顔が消えていた。
いつもにぎやかな夏香が静かだからか、クラスの雰囲気も妙に暗かった。
そして、田嶋あおいは、そんな夏香のそばにくっついていた。こそこそと何かを耳打ちしているようだった。夏香は聞いているのかいないのか、動かなかった。
あたしは、どうしていいのかわからない。こんな時どうしたらいいかどんな風に話しかけたらいいのか、知らない。ただ黙って不安を胸にして、うつむいているだけだった。
ガラガラガラ
「だんだん、あたたかくなってきましたねぇ~」
この間のおじいさん。増尾先輩のおじいさんだった。
「いよぅ~、しいな!」
先輩だ。
しまった、ヘアーウィッグ取ってくればよかった。ついでにめがねも。
「この間、みんな喜んじゃって大変だったんだぁ。みんな銭湯の入り方知らないしさぁ~」
先輩はくったくなく笑う。
「湯船が広いと童心に帰っちゃって、泳ごうとするのをとめるの大変だったぜ」
そうか、そうかも。
あたしは小さい頃おじいちゃんに、みんなが入る銭湯では泳いではだめだって教わっていたからな。でも入った事ない人にとっては、ほとんどプールの感覚だよね。
三年生の中で汗かきながらみんなをとめている増尾先輩のことを想像して、あたしはぷっと吹き出した。
「やっぱそれ、ない方が椎名はかわいいよ」
かぁ~とあたしは赤くなった。
にっこり笑うと白い髭のおじいさんと一緒に、ゆっくり奥に消えていった。
なんだ、なんなんだ。かわいいって、かわいいって?
顔が赤くなるような事をさらりと言ってくれちゃうよね、先輩は。あ~恥ずかしい。この間助けてくれたお礼言いそびれちゃったよ。
手でぱたぱたと顔を扇いでいたら、ロッカーのかげから先輩が顔を出した。
「田嶋の妹さぁ~、悪気はなかったんだと思うよ。先週、出身小学校の手伝いでこの銭湯来たみたいだぜ。それで、椎名の事見つけたみたいだからさ、許してやって」
「えぇ~?田嶋さんが銭湯来てたの?」
手を振りながら先輩は、脱衣所の方へ大きな声を出しながら消えていく。
「って、田嶋が言ってたよ~、ああ、兄貴のほうね~」
ということは、あたしが番台に座っている間に来たって事だ。
あれぇ、記憶に無いけどなぁ。
先週は、なんだかばたばたしていたんだっけ。
あたしは先週の事を思い出してみたけど田嶋さんらしき人にお金やお風呂券をもらった覚えがない。
頭の隅っこの方で、人ががやがや入ってきた映像がよぎる。
そうか、あの時あの人ごみの中にいたんだ。
そうそう、相撲大会だ。それでその手伝いの人なんかが来ていたっけ。
夏香があこがれの岡先輩と、田嶋さんのお兄さんがクラスメートだって言っていたのを思い出す。増尾先輩も田嶋さんのお兄さんと友達だったんだ。
けど、わからないよ。悪気は無いって言っても、夏香はあたしから離れてしまった。
別にあたしから近づいたわけじゃない。だけど、心のどこかで夏香のこと友だちだって思っている自分がいる。
いつの間に、こんなにあたしは夏香のこと必要になっていたのかな?
友だちなんか要らないって、ずっと思っていたのに。
いつからだろう、あたしは友だちを作らなかった。
あたしの言った事やあたしのした事に対して、相手がどう思うかとかどう感じるかとか考える事が嫌だった。
そんな事を考えてびくびくするくらいなら、友だちなんていないほうがいいって思っていた。
だけど、友だちになってしまった夏香が今、何を考えているのか、どうしてあたしから離れちゃったのか、ぐずぐずとあたしは考える。
考えても、行動にうつす事すらできないって、わかっているのに。
だめだ、先に進めないよ。
こんな時に誰にも相談さえできないし、どうしていいかわからない。あたしは立ち止まって下を向いているだけだ。
コツン コツン。音がして、またズキンとたんこぶのあたりが痛んだ。
くらっと今度はめまいがした。
今いる身体から何かが抜け出ていって、ぐるぐるとあたしは空高く飛んでいくようだ。
真っ暗な中で解けてしまいそう。真っ暗が真っ白になり、おぼれてしまいそう。
うすぼんやりとあたりが明るく形になってくる。ふわふわの無重力の中から戻ってきたんだ。
また、過去の世界に迷い込んだに違いない。
だって、昔の銭湯の脱衣所はロッカーがないから明るいんだもの。
やっぱり、あたしの目に映ったのは昔の『夢の湯』だった。
人がたくさんいる。ガラガラっと扉が開くと「こんにちは~」とか「あたたかくなってきたね~」とか言って、みんな挨拶をして入っていく。あたしの世界とは全然違う。
ゆっくり見回すと、女湯の片づけをしている女の人がこっちへゆっくり歩いてきた。
「けっこう、重労働ね~」
ママだ。ママはゆっくりゆっくり歩いて番台の手すりのとこによりかかった。
『無理しなくても、いいのにねぇ』
おじいちゃんの声だ。
「だいじょうぶよ。もう安定期に入ったんだし、少し動かないと太っちゃうわ」
安定期ってなんだ?聞いたことある言葉。
この間見た時はまだ学生だったママは、もう写真のママに近かった。
少し太ってぽっちゃりしているだろうか。ノーメイクみたいだけど頬がぴんく色していて、とってもかわいい。
「二人目ってつわりもひどくないし、なんでもとってもおいしく食べられちゃうの。こまっちゃうわ」
うわぁ~、ママのおなかの中には、あたしが入っているんだ。
そういえば、すとんとしたワンピースのお腹の部分がふわってまあるく出っ張ってる。なんだか、うれしいような不思議な気分。
ママがあたしの入っているお腹をなでる。くすぐったい感じ。ママはあたしの事、すごくいとおしそうになでる。
ママ、あたし今ここにいるよ。中学一年生になった葉月がここにいるよ。
ママに聞こえるわけもなかったけど、あたしは心の中で叫んでいた。
「はづき」って、あたしの事呼んでくれたらいいのに。そんな事ないのにあたしは願った。
『うちの何のとりえも無い息子のとこに、まあよく嫁に来てくれたもんだねぇ。それだけでもありがたいってもんなのに、二人も孫の顔が見られるなんて、あたしゃ幸せもんだよねぇ』
おじいちゃんったら、おかしいなぁ。おかしくって涙がでちゃいそうだよ。
葉月はおじいちゃんが大好きになるんだよ、とってもとっても。
「あらあら、おとうさん。パパさんはとってもすてきだったのよ。人と接するのが下手なあたしがいろんな人と付き合えるようにしてくれたのは、パパさんよ」
意外なママの言葉。
へぇ~、パパが?信じられない。それにママって人と接するのが下手だったんだ。
『そうかねぇ、人には一つぐらいとりえがあるってもんだ』
ママが長いまつげをゆらして瞳を大きくしてにっこり微笑んだ。
「そうよ。おとうさんやおかあさんやこの町の人達もよ。わたしこの町に引っ越してきて本当に良かったって思ってる。この『夢の湯』も大好きよ」
ママはとっても幸せそうだ。あたしまで幸せな気分になる。
ママは、パパやおじいちゃんやおばあちゃんをとっても愛していたんだね。この『夢の湯』も。
「美人の嫁さんと仲良いね、うらやましいよダンナ!」
お客さんがそう言いながら、風呂上りのつるつるの顔で出て行く。
『おうさ。うらやめ、うらやめ。こちとら、もうすぐ二人の孫のおじいちゃんだ』
くらくらっとまた目がまわった。背中を誰かに引っ張られるような感じ
。
戻っていくんだ。戻っていくのがあたしにはわかった。昔の世界から今の世界へ。
そう思っていると目の前が暗くなって、遠いところで声がした。
『葉月が友達も作れないなんて、あたしゃ責任感じちゃうねぇ』
おじいちゃんの声。な~に?どこにいるの?
目を開けて、あたしは首を振ってあたりを見渡す。
目が覚めたときみたいにまわりがはっきりしてくる。
ああ、昔の『夢の湯』じゃないな。あたしのいる世界の『夢の湯』だ。ここは番台で、あたしはいつも通りに座っている。
また声がした。
『いつもあの世に行くときはぽっくりといきたいねぇ、なんて言っていたから神様がそうしてくれたんだよねぇ』
おじいちゃんの声が聞こえる。
でも、ここは葉月の世界だよ。おじいちゃんはもういない世界なんだよ。
だけどまたおじいちゃんは、話始める。
『でも、まさかねぇ。葉月のママさんが亡くなってすぐ、お呼びがかかるとは思わなんだ』
男湯には、おじいさんやらおじさんが何人か入っていく。あたしのとこにお風呂券を差し出して、さっさと中に向かう。あたしは「どうも」と言って頭をさげる。
なんだか、どきどきする。どこかにおじいちゃんがいるような気がして天井を見る。
もしかしたらあたしが昔の世界を番台の上の方から見ていたように、どこかでおじいちゃんがあたしを見ているんだろうか?
銭湯の高い天井には何にもみえなかったけど、あたしは叫んだ。大きな声で。
「おじいちゃ~ん!」
ロッカーの向こうからさっきのおじさんが顔を出したけど、あたしは知らん顔した。
『おやまあ、びっくりしたねぇ。葉月はおじいちゃんの声が聞こえるのかい?』
おじいちゃんの声が頭の上の方から響いて聞こえる。
「うん、聞こえるよ。どこにいるの?おじいちゃん」
あたしの声に答えて、すぐにおじいちゃんの声が聞こえた。うれしくて胸が高鳴った。
『おじいちゃんは、番台から葉月の事見ていたよ。どうもここだけがおじいちゃんに許された場所のようなんでねぇ』
あたしは、小さな声で聞いた。
「ずっと?ずっとここで見ていたの?」
『そうさねぇ、たまにここに降りてこられるみてぇだよなぁ。ああ、もうじき命日だからかねぇ、一年にいっぺんくらいのわりだなぁ、きっと』
「じゃ、あたしが少しずつ大きくなって行くの見ててくれたの?」
『そうそう、もうこんなに大きくなっちゃうなんてねぇ。目から汗が出てくるってぇもんだ』
あたしは、もう嬉しくて飛び上がりたい気分だった。
「もしかして、最近あたし昔の世界にトリップしちゃうんだけど、それっておじいちゃんがやったの?」
あたしは、ふとひらめいた事を聞いてみた。
『トリップってなんだい?あたしゃ、もうちょっと長生きする予定だったからねぇ。葉月が今みたいに寂しい思いをするのはあたしのせいなんじゃないかって、思ったもんだからねぇ。胸がいたいよ』
「おじいちゃんのせいって?」
『お前さんは、すっごく人懐っこくて誰からも好かれるような子だったんだがね、たぶんママさんが亡くなってから、頼りにしてたこのじじいがぽっくりいっちゃって、怖くなっちゃったんじゃなかろうかとねぇ』
「だから、昔の世界に連れて行ったの?」
『いやぁ、この番台は心に念じれば過去の世界に行けるのかもしれないよ。じじいは特別になにもしちゃいねぇがね。おっと、じじいはそろそろ帰れって言われる時間になっちゃったねぇ』
「待ってよ。おじいちゃん、まだたくさん聞きたいことがあるの、聞いてほしい事も」
あたしは、あせって聞く言葉を探した。
けれど、それきり何度あたしが話しかけてもおじいちゃんの声は聞こえなくなっちゃった。
その日は、寒くて北風が冷たくてあまりお客さんの来ない日曜日だった。
そうだ、もうすぐおじいちゃんの命日だったな。こんな寒い北風が吹く日だったっけ。悲しみに凍りつきそうだったもの。
あたしは、おばあちゃんと交代して『夢の湯』を後にした。
靴を履いて暖簾をくぐれば、パパとママがデートしていたベンチがある。
朽ち果ててもうぼろぼろになっちゃって、寂しさで胸がいっぱいになる。ここは、パパとママの思い出のベンチなのに。
脇にある桜の木は、見上げると少しだけつぼみが膨らんで見えた。もうじき、暖かくなると突然びっくりするくらい花が咲くんだよね。
この辺は、いっきに賑やかになるんだ。銭湯に来た人はみんな見上げていくんだものね。
そんな中で幸せそうに笑いあっているパパとママの姿を思い出した。パパに話しかける近所の人達、たまにママにも何か言っては笑って通り過ぎるおばさん。そんな幸せそうなママの笑顔。
おじいちゃん、あたしはママみたいに変われるかな?ママみたいに、笑えるようになるのかな?
まだ寒い風が、吹き抜けていく。桜の木の枝は揺れながらも力強く、凛として見えた。
その晩夕食を食べながら、あたしは聞いてみた。
「ママって、人と接するのが苦手だったの?」
パパは、お姉ちゃんが買ってきたとんかつを頬張ってびっくりしたらしく、そのまま動かなくなった。
そして、ごっくんと飲み込むと、ゆっくりと話し始めた。
「ママは引っ越してきて、なかなか友だちが作れなくって寂しそうにしていたんだ。なんてったって、美人だから人から敬遠されるのかもしれないね」
パパはまた、ママ自慢をしながら言った。
「だから、ママが人見知りしないように『夢の湯』に来た時、いつも顔をあわせるようにしたって訳。だんだん、パパともパパの友達や幼なじみとも話すようになって、昔からの友達みたいになったんだ」
そうか、この辺はパパが小さい頃は商店が立ち並び、同級生がたくさんいたって聞く。
商店も代がかわり後を継ぐ人も少なくなり、このまわりに住む幼なじみもめっきり減ったと。
急にパパが心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。
「なんだ、友だちとなにかあったのか?」
するどい。意外とそんな事気がつくんだ。お姉ちゃんまで不安そうにして、箸をとめた。
「なんにも、何も無いよ。ただちょっと意外だったからさ」
すると、パパはもりもりご飯を口に入れながら
「いやぁ、最近葉月がパパと良くおしゃべりしてくれるんで、パパはうれしいよぉ~」
ご飯粒が飛ぶから、食べながら話すな!
もう一つ思いついたから、聞いてみる。
「そういえば、おじいちゃんの命日って三月三日だったっけ」
お姉ちゃんがしみじみと言う。
「おじいちゃんって、きっと悲しんでほしくないのよ。だからひな祭りなんかに亡くなっちゃうんじゃないの?」
それは賛成。おじいちゃんは、賑やかなのが好きだったからね。ひな祭りと一緒に騒いでほしいんだろう。
おじいちゃんと話していてわかったんだけど、さっぱりしてるっていうか気持ちいいっていうか、そんなおじいちゃんが小さい頃よりもっと好きになったな。
とんかつはサクッとして心地よい舌触りだった。おいしくてご飯をおかわりしてしまったけど、明日の事を考えると胸焼けしたみたいにつかえた。
その晩、あたしは夢を見た。
幼いあたしは大きな声を上げて泣いている。隣でおねえちゃんが悲しそうにあたしの手を握っていた。あたしは、だだをこねてママの事を呼んでいる。
向こうから歩いてきたのはおじいちゃんだった。あたしはおじいちゃんの胸に飛び込んで、聞いた。
「ママはどこ?どこにいるの?」
隣におねえちゃんが歩いてきて、低い声で言う。
「ママは天国に行っちゃったんだよ。がまんしな。わたしだって悲しいんだから」
あたしは、おじいちゃんの胸でいやいやをする。
おじいちゃんがあたしの頭をなでながら、やさしく
「葉月はまだ、小さいからねぇ。もう少ししないとわからないかも知れないよね」
おじいちゃんが、しゃがんであたしの目を見て言った。おじいちゃんの瞳がぬれている。
「ママさんの代わりを、しばらくの間じいちゃんがしてあげるよ。なんでも、お言いよ。葉月のいう事はなぁ~んでもこのじじいがきてやるよぅ~」
あたしは、おじいちゃんにしがみついた。おじいちゃんが抱き上げるとあたしは、ようやく泣き止んだ。
それから、またあたしは花とお線香の入り混じった香りの中で、泣いていた。
「うそつき~、おじいちゃんのうそつき~」
そうだ、その光景はおじいちゃんのお葬式だった。
あたしは、前より少し大きくなっていたけどやっぱり、みそっかすで一番下の甘えん坊の女の子だった。
眠っているおじいちゃんは、たくさんの綺麗な花に囲まれていた。
それでも、あたしはおじいちゃんが許せなかった。
ママの代わりをしてくれるって言ったじゃない。なんでもわがまま言っていいって。
「起きてよ~、おじいちゃ~ん」
おじいちゃんには、それきり会うことは出来なかったんだ。
あたしは、誰かの胸に顔をうずめて泣きたかったのに、誰もが静かに悲しみの中涙を流していた。
あたしは、お線香の煙の向こう側で笑っているおじいちゃんをにらみつけながら、もう泣くまいと思って歯を食いしばっていた。下唇がしびれて痛かった。
あたしは、その日までに一生分の涙を流してしまったような気がしていた。