深海
気が狂いそうになった。

どこを捜しても見つからない。

思えば、、私は彼の事を何も知らない。

どこで生まれたか、どこで育ったのか。

どこに勤めているのか、普段何をしているのか、、、

…それは知る必要がないと思っていた。

彼がいれば、、それで良い。
ただそれだけで何もいらない。

私の世界の全てが…、彼なのだから。

ふと目の前の鏡を見ると、髪を乱した血の気の無い、死体のような女が映っていた。

「ねぇ、、彼はどこに行ったの?」

答えの返らない鏡に問う自分は正常なのだろうか?

彼が消えた時から、私は狂っていたのかも知れない。

私の足は、重力を感じなくなっていた。

「本当は、私がどこかに行ってしまったの?」

彼の元から去ったのは私ではないか?
私が彼の元から消えたのではないか?

鏡に映る女の姿を両手で思い切り殴った。

粉々に砕け散る女の姿。

割れた鏡の破片が手に刺さり、血が流れる。

その、床に落ちた破片を睨み付けながら何度も殴る。

血。
目眩。
虚無感。
深い絶望。
吐き気。
孤独。
死。

砕け散る鏡に、再生される事の無い記憶を投影する私。

痛みは感じない。そこに痛みなど存在しない。


最初から無かったんだ。「痛み」は、痛いと思う現象なんだ。

床一面が、赤い鏡の破片で埋め尽くされた時、、、


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