不死の魔女と百年足らずな寿命の少年
「はぁ……」
何度目だろう。海を見つめてため息をつくのは。
「三十万と……千二百……三回……? ううん、たぶんもっとよ……」
数えてもないのに、指折りながら適当な数字を口に出してみる。
そうすれば、ちょっとは暇と孤独が紛れるかもしれないと思ったから。
けれど、それは失敗だった。
目の前に広がる大きくて広い海と、崖下に打ち付けられる波の音が、孤独であることをこれでもかというほどに突き付けてくる。数字を言ってみたりだとか、その程度のことでこれは簡単に解消されることじゃなかった。
「……ダメね。景色ばかり眺めてたら、すぐにむなしくなる。日記でも付けよ。天気だけはこんなにもいいんだから」
独り言を呟き、花の咲き誇る崖の上で腰を下ろした。そして、手に持っていた分厚いノートを広げる。
そこに、とにかく見たものと思ったことをつらつらと書いていく。
日々の感動なんてものはあんまりない。
なぜなら、私――フェーナは魔女であり、この無人の小さな島にて、千年もの間たった一人で暮らしてるから。
千年もあれば、色々と極めたいものも極めることができるし、やりたいことだってやれる。この島のことだってなんだってわかる。
薬作り、料理、魔法の研究、物語を書くことなどなど、挙げ始めればキリがない。
つまるところ、私は不老不死。老いたりもしないし、死んだりもしない。
魔女の特権というものなんだろう。
こんな特権、もう捨ててしまいたいんだけれど。
「……花、今日も綺麗。白色。精神安定薬のいい素材になりそう……」
書きながら思った。この文、一昨日も書いた気がする。一昨日の前は三日前。三日前の前は二日前にそれぞれ同じこと書いてる……。
ペラペラとページをめくってそんな事実に気付く。
げんなりしそうになったけれど、首を横に振って気持ちの立て直しを図った。
いやいや、そんなこと言ってたらそもそも書くことがなくなる。これでいい。とにかく何かが書ければ、それでいい――
「ってことにはやっぱりなんないわよ……。日記を書くのなら、何か別のことが書きたいに決まってる……」
気持ちの立て直しは無理だった。
何時間経っても、何日経っても、何年経っても、来る日も来る日も同じことを一人でやるだけ。
薬作りだって得意だけれど、今はもうほとんどやってない。
理由は単純で、この地に人が来なくなったから。
千年より前は、崖の上から大海原を眺めていると、必ず一つや二つは船が通り過ぎていってた。
そのたびに、人々へ作った薬をあげたりしたものだ。中には料理を振舞ったりしたことだってある。
お返しとして、人間はこの地以外のことを知らない私に、色々なことを教えてくれた。
それがある種私の楽しみだった。
だから、ここ千年、人が来なくなってしまった今でも、こうして崖の上から大海原を眺め続ける。
もしかしたらまた誰かが来るかもしれない。
誰かが来て、人間の間であったことを楽しげに語ってくれるかもしれない。
そうしたら、私には決めてることが一つある。
思い切り歓迎してあげて、会話して、その人の乗って来た船に私も乗せてもらうのだ。
それで、どこでもいいから、島じゃない陸続きの大陸なんかに下ろしてもらう。
そして旅をする。色んな土地に行って、色んなものを見て、その中で親しい人を作って、もう一人じゃないようにして生きていきたい。
それが今の私の夢。
……けれど、今日もこの大海原に誰かが船で通り過ぎる気配はなかった。
戦争でもあった?
それで人は滅んでしまった?
だったら、こうして誰かを待つのも無駄なの?
わからない。誰も私に何があったのか教えに来てくれないから、わからない……。
「………………」
考え込み始めると、次第にノートへ文字を書き込むことだって億劫になってきた。
私はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと崖下の見えるところまで歩いた。
どうせ崩れたって、不死身な私は死んだりしない。
すごく痛い思いはするかもしれないけれど、怪我をすぐに治す薬だって持ってるし、何よりも、痛い思いをすることで、非日常を得られるかもしれないと考えると、なぜかそれほど嫌じゃなくなってる自分もいた。
……とにかく、大丈夫。
千年の間で、崖先に座って足をプラプラさせながら海を眺めたことなんていくらでもある。簡単に崩れはしない。
そんなわけで、じりじりと進んでる時だ。
ふと、何か叫ぶような声が聞こえた。
動物?
そう思い、振り返って木々の生い茂る方へ視線をやってみたけれど、どうも声がするのはそっちからじゃない。
声は海からだった。でも、海の生き物で叫び声を上げることのできるものっていたかしら?
さっきまで静かだった心臓がドクドクと跳ね始める。
私は必死に声の主を見つけるため、辺りをキョロキョロと見回した。
徐々に聞こえる声は大きくなってくる。
「……! 間違いないわ! これ、人の……赤ちゃんの鳴き声よ!」
私の推測は正解だった。
遠く、向こうの方から波に揺られてくる小さな箱のようなもの。
声はそこからしていて、肌色が微かに見える。
「ちょっと待ってて!」
気が付けば、私は走っていた。
花園を抜け、森を抜け、下へ下へと下っていく。
崖下に着いた時、赤ちゃんを乗せた小さな箱は、ちょうど私の辿り着いたところへゆっくり流れ着こうとしていた。
奇跡的だ。まるで波がその子を私の元へ運んでくれてるようだった。
「それにしても、どうして人間の赤ちゃんが流されてきたの……? しかも、こんな小さな箱に乗せられただけでよく溺れなかったわね」
箱から赤ちゃんを抱き上げ、様子を確認する。
どこから流されてきたのか、なんで海に放り出されたのか、そんなことは知る術もないけど、一つだけ言えることは、驚くほどに健康的だということだった。
特に痩せてる風にも見えないし、汚れてもない。お腹が空いてるからか、さっきからずっと泣いてはいるものの、それ以外まるで異常が見当たらない。
「……不思議だわ。この近くに島なんてないし、どこかから来ようと思えば船で何十日もかけないといけないはずなのに……」
しかも箱で流されるだけとなれば、それこそ何百と日数がかかる。普通に考えてそんな長時間何も食べなかったら死んでしまう。この子はいったい何者なんだろう。
「私と同じ魔女? ……いや、男の子だし、それはないわね。だったら……その魔女や魔人の子どもだとか……?」
だとしても、何も食べなかったら元気がなくなるし、汚れはする。その線もなさそうだ。
「本当にあなた何者なの……?」
抱いているその子を見つめながら首を捻っていると、さらにわんわん泣き始めた。そして、おしっこもし始める。
私は焦って家に戻った。
赤ちゃんのためのものがあるわけじゃないけれど、おむつの代わりになる布だったり、食事の作り方くらいは知ってる。昔来てくれた人間たちが教えてくれた。
「ちょっと待っててね。すぐに綺麗にしてあげるし、ご飯もあげるから」
走りながらなだめても、赤ちゃんには通じない。
そんなことはいいから早く走れと言わんばかりに思い切り泣かれ続けた。
私は苦笑し、走るのだった。
まさかこんなことになるなんて、と心の中で思いながら。
人と会わなくなってから千年。
孤独な日々を送る私に潤いを与えてくれたのは、たった一人の人間の赤ちゃんだった。
私は赤ちゃんに『スイ』と名付けた。
海水に流されてやって来たし、水は何かを潤す。
何かと水に関係のあることが多かった。だから、スイ。
なんとなく適当に名付けたけれど、スイはこの名前をとても気に入ってくれた。
私が名前を呼んで頬を撫でてあげると、楽しそうに微笑んでくれるし、指を握る力も強くなる。
この名前を気に入ってくれたに違いない。
そうして始まったスイとの生活は、何もかもが初めての体験だらけで、最初の内はとても大変だった。
お腹が減った、おしっこなどをしたということで泣くのならわかるのだけれど、時折よくわからない理由で泣いて、泣き止んでくれないから幾度となく不安にさせられたし、そのタイミングもまばら。
私の寝てる夜に泣き出せば、薬作りとか、植物採集してる時に泣くこともあったから、生活リズムがかなり狂ったりもした。
一度、あまりにも人間の赤ちゃんのことがわからず、書庫に行って赤子の本がないか探してみたけど、そんなものはやっぱりなかった。
人の赤ちゃんについて、もう少し立ち寄った人間から聞いておけばよかったと後悔もしたけれど、まさか自分が育てる立場になるなんて想像もしてなかったから、そればっかりは仕方ない。
苦労はしたものの、それ以上にスイはどうしようもなく可愛かった。
ちょっとずつ、ゆっくり、ゆっくりと色々なことができるようになり、その一つずつを一緒に喜んだ。
そうして、出会ってから一年ほど経ったある時、遂に歩けるようになり、スイは私のことをたどたどしく名前で呼んでくれた。
フェーナ、と。
嬉しいなんてものじゃなかった。
誰かに名前を呼ばれたのは久しぶりだし、少しずつ成長してるスイが実感できて、思わず涙が出てしまった。
「ふぇーな!」
「うん。私はフェーナよ。あなたの名前はスイ。す・い」
「しゅ……い……」
「そう。スイ」
「しゅい……」
「ふふっ。そうそう。スイよ。スイ」
「しゅい!」
まだちゃんと『す』は発音できないみたいだけれど、にへ、と笑うスイを優しく抱きしめた。
そして、嬉しさと幸せな思いのままに、家を出てすぐ目の前にある花園へと一緒に向かう。
これから、この子には私の知ってることを全部教えてあげよう。
寿命の続く限り、スイが望むように、幸せになるように。
それが当面、私の幸せにもなるから。
スイが私の名前を呼んでくれるようになってから、十年ほどが経過した。
十年と言えば、私にとってはそれほど長い時間ではないけれど、短いかと聞かれれば、そうとも言えないと答えるであろう中途半端な時間だ。
けれど、人間にとって十年は結構なもののようで、スイは心身ともに大きく成長した。
初めのうちは男の子か女の子か、しっかり確認しないとわからなかったけれど、幼いながらも外見だけでそれは大方判断できるようになった。
ちゃんと私とも会話できるようになったし、文字も読めるようになった。
本当に、泣くしかなかった赤ちゃんが、よくここまで成長できるものだ。
日々、感動は尽きない。
ただ、一つだけ気がかりなことがあった。それは――
「ただいま、フェーナ! 頼まれた薬草、ちゃんと取ってきたよ!」
考え事をしながら薬草の本をめくっていると、家の玄関を開け、スイが帰って来た。
私は本を閉じ、すぐに玄関の方へと向かう。
「おかえり、スイ。大丈夫だった? 動物に襲われたりしなかった?」
「うん、大丈夫。はいこれ」
スイは取ってきた多種多様な薬草を袋ごと私に渡してくれる。
私は中身を確認するより前にスイの頭を撫でた。
「今日もありがとね。でも、無理はしないで。あんまり危険なところに行ってしまうと、怪我しちゃうから」
「そんなの大丈夫だよ。フェーナが教えてくれた『あんぜん』なとこ通って探してるし」
「……そう?」
「うん! 薬作り大変でしょ、フェーナ。だから、僕もお手伝いしたいんだ。お手伝いして、早く終わらせて、一緒に花園で遊ぼ! また前みたいに!」
「……スイ……」
この時の私は、やめていたはずの薬作りをまた新たに再開させていた。
スイの体調が悪くなった時のためのもの?
そう思うかもしれないけれど、実のところを言えばそうじゃない。
私は人が……スイが死なないための不死の薬を開発しようとしていたのだ。
流れる時と共に大きくなっていくスイを見ていると、十年、二十年、三十年と、あっという間に過ぎて行ってしまう。
八十年も経てば、スイはもしかしたらもうこの世にいないかもしれない。
私はたまにそのことを想像して、一人震えていた。
この子がいなくなれば、私はもう一人でやっていける自信がない。
私はスイを心の底から愛している。
スイもそれは同じだと思う。
毎日一緒にいて、生活して、この島で生きて……。
だから死なせない。人の寿命なんてものは、私が全力で引き延ばしてあげなければいけないのだ。
「……フェーナ? どうしたの? ボーっとして」
「あ、ごめんねスイ。ちょっとまた考え事してたわ。大丈夫、何でもないから」
「まだ……お薬作るの終わりそうにない……? 花園で遊べない……?」
「……いいえ。今作ってるお薬が終わったら、いったん遊びに出掛けましょっか」
「! ほんと!?」
「ええ。本当よ。花園以外にも、どこかへ行ってみましょ」
「うん!」
晴れやかな笑顔を浮かべ、喜ぶスイ。
それを見て、私はより一層不死の薬への思いを強めていくのだった。
不死の薬を作り始めてから、十年ほどが経った。
相変わらず私にとっては数えるほどの時間でもないのだけれど、スイにとっての十年はこれまた相変わらずかなり大きかった。
二十歳を迎え、十歳の時よりも背が伸び、声が低くなり、筋肉も付いた。昔やって来ていた人間の男により一層近付いていったわけだ。
同じ人間だからそれは当然なのだけれど、間近で成長を見ていると、命のはかなさをひしひしと感じてしまう。
そんな私はと言えば、未だに薬を完成させることができていなかった。
何度も何度も何度も、試行錯誤を繰り返したところで、上手くいかない。
魔女と違って、人の細胞の再生破壊の回数は定められていて、有限なのだ。
その有限の壁をどうにか壊してやろうとするわけだけれど、本当に何をやっても上手くいかない。
私はあまりのどうしようもなさに頭を抱え続けた。
そして、ある時スイに聞いてみた。
「死ぬことについて、どう思う?」と。
初め、スイは驚いてるみたいだった。
いきなりどうしたの? 何でそんなことを?
読んでいた本から顔を上げ、首を傾げ、心配そうな表情を作ってくれる。
だから、私は付け加えるようにして説明した。
「私は魔女だから死なないし、死ねない。スイは人間。死についてどう思うか、単純に気になったの」
「そんなの、僕にだって今はわからない。想像できないよ」
「……じゃあ、聞き方を変えるけれど、死ぬのは怖い? 当然嫌よね? 痛い思いをするかもしれないし、苦しい思いをするかもしれないし、それに――」
「……フェーナ……?」
言いかけて、やめる。
勢いに任せて何もかもを言ってしまうところだった。不死の薬のこととか。
「……とにかく、ね……。スイは……死ぬのが嫌でしょ……? そうよね?」
首を縦に振る。そうに決まってると思った。
けど、だ。
「そんなことはないよ。別に嫌とか、そういう気持ちはない」
少し間を置いて、柔らかい表情でそう言われた。
私は虚を突かれ、思わず「え」と声を漏らしてしまう。
「……どうして? どうして死ぬのが怖くないの?」
「うーん。理由を聞かれるとちょっと困るんだけど……しいて言えば、僕が人間だからかな?」
「人間……だから?」
言ってることの意味が分からない。
疑問符を浮かべていると、スイはニヤッと意地悪そうに笑う。
「そりゃ、さっき言ってくれた通りフェーナは魔女だし、そういう人間の感情はわからないだろうけどさ」
「なに? 人間には死を恐れない特別な感情があるって言うの? 虫でも動物でも、死のある生き物はみんな死ぬのが怖いと思うのだけれど?」
「ははっ。まあ、一般的にはそうかもしれない。虫とか動物にはあんまり感情とかないからね」
「……?」
「要するにさ、僕は人間で色々と感情がある。感情があるから、大好きなフェーナの傍にずっといられて嬉しいし、幸せだし、そんな人生を最後まで送ることができるのなら、死ぬことなんて全然怖くないんだよ。つまり、そういうこと」
「え……」
「好きだよ。フェーナ」
唐突な告白だった。
いや、わかってはいた。私もスイが大好きで愛してるし、スイも私が好きだってことくらい。
けれど、こうして面と向かって「好き」と言われると、どうにもよくわからない気持ちになってしまう。
今まで一人で過ごすことの方が多かったから、こういうのは初めての体験だし、そもそもスイは私の子どもみたいなものだと思うし、もっと言えばなんでこんなことでドキドキしてるのかとも思うし……。
とにかく、すぐさま冷静になるよう努めた。
私とスイはいわば親と子みたいな関係。そこに人間で言う恋愛的感情なんてあるはずなんだ。
落ち着きなさい私。何を考えてるの……。
グルグルと混乱の渦に飲み込まれ、下を向きながらブツブツ言ってると、ふと目の前に人の気配を感じる。
見上げると――
「どうしたのフェーナ? やっぱり今日なんか変だよね?」
「あ;@づっ!?」
ゼロ距離まで接近していたスイの顔に、私は言葉にならない声を漏らすしかなかった。
そして、反射的に後退する。
「フェーナ、大丈夫? 体調悪い?」
「いいいいやいやいや、そそそ、そうじゃないの! 私は魔女だし、体調なんて滅多に悪くなることなんてないし、いざとなれば作り置きしておいた薬がたくさんあるから!」
「そう? ならいいんだけど。変な質問してくるし、どこか悪いのかと思った」
「あはは……。ごめんなさいね……心配かけて……」
「謝らないでよ。僕なんて何度もフェーナに助けられてるし、だからフェーナがピンチになった時は僕が助けになるからさ」
「……うん。ありがとう。スイ」
私は作り笑いを浮かべるしかなかった。
「あ、そうだ。午後のおやつの時間がまだだったわね。クッキーとお茶出してくるから、そこで待ってて」
「それなら僕も手伝うよ。一緒にキッチンに行こう」
「そ、それくらい一人でできるから! いいからスイはそこで待ってて! いい? 大人しくしてるのよ?」
「ははっ。はいはい」
どうも、スイの手のひらの上で転がされてる感じが否めない。
焦りながらも、私は慌ただしくすぐそこにあるキッチンへと向かった。
何度も言うけれど、血のつながりがないにせよ、スイに恋愛感情は抱くわけにはいかない。
それに、そんなことよりも今は他に問題がある。
スイは死を恐れていないと教えてくれた。
そういうことなら、その考え方は、今私が必死に成し遂げようとしてることと反してるということだ。
だったら、もういっそのこと不死の薬作りなんてやめてしまったらどうだろう。
そう、心の中の怠惰な自分が囁くのだけれど、私はそれを受け入れるわけにはいかなかった。
薬作りを止めてしまった途端、スイが亡くなってしまった途端、私は孤独になってしまう。
それだけは……もう耐えられそうにない。
「でもさ、フェーナ」
「! え、な、何かしら?」
いきなり名前を呼ばれ、私は過剰に反応してしまった。
それを見て、スイはからかうようにクスクス笑う。
なんか、こういうとこだ。まさに手のひらの上で転がされてる感じ……。
うーん、しっかりしなきゃ。
咳払いを「こほん」とし、ちょっとだけ発声をよくしてから、もう一度「何かしら?」と言った。
すると、スイはさらにクスクス笑う。
もう……本当に……。
「あのさ、さっき質問してくれたから、これはお返しなんだけど、フェーナ自身がもしも死ぬことのできる体になったとしたら、それはどう思うかな?」
「え?」
「人間になることができたらーとは言わないけど、僕と同じくらいの寿命で死ぬとしたらどう思う?」
「それは……嬉しいわ。願わくば、そうならないかしらって思うくらい。そんなこと、あるわけがないから、あまり考えたことがなかったけれど」
「本当に? 後悔とか、もっと生きたかったとか、死に際になってそういうこと考えたりしないって自信ある?」
「あるわよ。だって、もう無駄に生き過ぎなんだもの……」
「……そっか」
質問の意図は敢えて聞かなかった。
聞いたら、なんとなく空気が重くなりそうな気がしたし、おやつの時間は楽しく会話したい。
だから、それ以上死について聞くことはやめた。
「ねえ、フェーナ。ならさ、僕にも薬の作り方、本格的に教えてよ」
「え? スイが薬を? どうして?」
「ん、まあ、僕もフェーナみたいにいつか誰かを助けられるような薬が作れたらなって」
「……そう。なら、いいわよ。簡単なものから作っていきましょうか」
私が言うと、スイはニコリと微笑み、「やった」と一言口にしながら喜んだ。
二十歳になっても、この子は素直なままだ。
だから、それが故に、死が怖くないというのもまた本音なのだろう。
そう言われてしまうと、スイの命を私の薬で勝手に引き延ばしていいのか、不安になってくる。
「薬は……誰かを幸せにするために存在するものだから……」
「へ? いきなりどうしたのフェーナ?」
「あっ、う、ううん! 何でもない! ちょっと考え事してて、それが口に出ちゃってたわ」
「へー。でもそれ、これから僕に薬の作り方教えてくれるうえで重要だったんじゃない? ちょうどよかったってやつ!」
「まあ……ふふっ。そうなのかもしれないけれど」
「だよねー! 得した気分!」
「でも、こういう独り言はなるべく聞き流して欲しいわ、スイ。私、独り言喋っちゃうのが癖みたいなところあるから」
「それは無理かなー」
「もう……」
スイはニヒヒと笑った。
それを見て、表面上呆れながらも、私は釣られて頬を緩めてしまった
気恥ずかしさと同じくらい、誰かに独り言を聞かれることが嬉しくもあったから。
それから、さらに時間は早く過ぎていった。
十年、二十年、三十年と、気を抜いてしまえばすぐに瞬間瞬間が過去のものになってしまう。
スイも年月とともに、目に見えて体が老化していった。
まだまだ大丈夫、なんて口癖のように言ってるけれど、ずっと傍にいるのだ。細かな衰えが把握できないほど、私の目は落ちぶれてはいない。
そのくせに、私が教えた薬作りだけはずっと続け、あれがない、これが足りないと、よく森や海、洞窟などに出向いていた。
体調が悪い日でもそれはやめない。
何度か注意して引き留めようとするものの、それが理由で喧嘩してしまったこともあった。
「こんなことになるなら、薬作りなんて教えるんじゃなかった」
そう私が呟くと、スイは悲しそうな顔をして、それでも何も言わずに家から出ていった。
そんなスイは、七十歳になった年、大きな病を患った。
それまで歩けていた距離が歩けなくなったり、食欲もなくなり、いくつもの薬を服用することで、どうにか実生活を送れるというレベルまで体力が落ち込んでしまったのだ。
私の作る不死の薬は、未だ完成しない。
心底焦っていた。
時間がない。とにかく、時間がない。
スイはあとどれくらい生きることができるのか。
一年? 二年? それとも、もっと短い?
明確にわからない中で、完成しない薬の研究を一人で黙々と行う。
自分に対して苛立ちを覚えないはずがなかった。
けれど、その苛立ちだけは絶対にスイに見せない。
そう、心に誓いながらいつも通り振舞っていたつもりだった。
「フェーナ、もうそれは作らなくていいんだよ」
ある日の夜。
積み重なった失敗作の数々に埋もれる実験室内で、途方に暮れ、机の上に顔を伏せていた私は、背から声を掛けられ、ハッとする。
「スイ……!?」
すぐさま振り返ってみるものの、そこには誰もいない。
おかしい。確かにスイの声が聞こえたのに。
「……もしかして……」
瞬間的に嫌な予感がした。
私はすぐに部屋を飛び出し、スイの元へと向かう。
おやすみの挨拶を交わした時は元気だった。
そんなことがあっていいはずがない。
最悪な状況がやって来るには早すぎる。早すぎるのだ。
「スイ、大丈夫!?」
バン、と叩くようにしてスイの部屋の扉を開ける。
『いきなりどうしたの? 心配性だなぁ、フェーナは』
苦笑交じりに笑ういつもの彼の姿。
幼かった時も、大人になった時も、おじいさんになった時も変わらない、いつものスイ。
今回だってそうやって私を迎えてくれるはずだ。
そう思ってた。
けれど――
「フェー……ナ……」
「スイ!」
ベッドの上で横たわる彼は、すごく苦しそうに私の名前を呼んでくれる。
たまらず、すぐに駆け寄って背中をさすってあげた。
「苦しいの……? どうして……? 寝る前に薬飲んだはずなのに……!」
「フェー……ナ……」
「私ならここにいるわよ! 大丈夫! 絶対に大丈夫だから!」
言って、ポケットに入れていた緊急用の錠剤箱を急いで取り出す。
水は部屋に置いてあるから、それと一緒に、もう一度薬を飲ませようとした時だ。
ゆっくりと、弱々しく、スイの手が私の手の上に置かれた。
「……フェーナ……。それは……もういいんだ……」
「もういいって、でも飲まないとあなたの体調が!」
「……いい……いいから……。……思った以上に厄介なんだよ……僕の病これは……。……フェーナは……悪くない……」
「そんなことないわよ! 舐めないで、私は千年以上生きてる魔女よ!? たかが人の病気なんて治す薬はたくさん持ってるし、作れるの! だから飲んで! 早くっ!」
「………………」
「スイ! お願い! 薬を……飲んで……! ……お願い……だから……!」
水を入れたコップと、薬を持つ手が震える。
スイはニコリと微笑むだけだった。薬を受け取ってはくれない。
膨大な時間があった中で、いったい私は何をしてたんだろう。
くじけそうになってる暇なんてなかった。落ち込んでる暇なんてなかった。そんな無駄な感情を抱いてる暇があったら、考えて考えて考えて考えて考えて、実践して実践して実践して実践して実践して、もっともっともっともっともっともっともっともっともっと研究をしていればよかった。
目の前で苦しそうにしながら、それでも私を安心させようとしてくれてるのか、笑むスイの顔を見ていると、悔しくて涙が止まらなかった。
「……日記帳……」
「……?」
「これは……さ……、今だから言えるし……勝手に読んでしまったことは……謝らないといけないんだけど…………、フェーナの書いてた日記帳を……だいぶ昔に……読んだんだ……」
「え……?」
「文字が……読めるようになった頃から……かな……? 隠れて……読み進めて……僕が君と出会うまで……どんな生活をしてたか……全部そこから……知った……」
「っ……」
「それから……人間のくせに……僕は偉そうなことを考えるようになったんだ……。ずっと……君の傍にい続けようって……。君を……幸せにしようって……。…………もう、孤独にはさせない……って……」
「……! ……そ、そんな……偉そうだなんて……!」
「……いや、偉そうだ……。……現に僕は……今君を……悲しませてしまってるし……、……ここしばらくは……ずっと君に心配ばかりかけて……自分の行動ばかりを優先してた……体が悪いのに……ね……」
「そ、それは……! ……スイがやりたいことを尊重してあげるって、私も心の中で決めてたの! だから、半分は私のせいでもあるし、それに対して不機嫌になるのは、自業自得で私が悪いから! スイは自分を責めなくていいのよ!」
必死に伝えようとして言うけれど、スイは「はは」と笑うだけだった。
そして、続ける。
「……ありがとう……フェーナ……。……でも……そうはいかないんだ……。僕は君のことが……一人の女性として……大好きだから……。最後まで……君には……男として……見られなかったんだけど……」
「そんなことない! スイはかっこいいわよ! かっこよくて、私にとってもすごく大切な人で…………っ! …………ずっと……大好き……なんだから……!」
上手く口が回らない。
最期はそこまで迫ってきている。
涙ながらに言って、彼の手を握るのだけれど、力は確実に弱ってきていた。
彼はそんな私に対し、ありがとうと、ごめんを何度も言い続ける。
それを聞いて、なおさら涙が出た。
どこかに行って欲しくない。ずっと傍にいて欲しい。
感情はないまぜになり、ただただそんな思いで手を強く握り続け、嗚咽することしか私にはできなかった。
本当に……本当に……愚かな魔女だ……。
「……フェーナ……」
名前を呼ばれるけれど、返事ができない。
「……泣かないで……」
いつかの時とは真逆だ。
昔、泣くスイを何度も慰めたことがあった。
なのに、今は私がスイから慰められている。
そうやって昔を思い出すと、また泣けてしまう。
スイを砂浜で抱き上げた時、やっと歩けるようになった時、初めて私の名前を呼んでくれた時……。
その何もかもが一気に思い出されて、私は顔を上げることができなくなってしまった。
「……かないで……」
「……?」
「行かないで……スイ……」
「………………どこにも行かないよ。僕は……ずっと君の傍にいる……。ずっと……ずっとだ……」
優しく、私の頭に触れるその手は、朝日が昇るその時まで置かれていた。
黒く塗られた夜の空には、決まって満点の星たちが私を歓迎してくれる。
この島は、晴れた日が多い。
だから、空に雲が漂っていることも少なく、星もたくさん見ることができる。
星は、いつも私を見守ってくれているのだ。
「フェーナ。僕がもし死んじゃったら、フェーナはまた一人になるの?」
「んー、あんまり考えたくないけれど、そうかもしれないわね」
「……悲しくない? 寂しいよね? 大丈夫なの?」
「大丈夫なわけないわ。スイが死んじゃったら、私、たぶん生きていけない。どうしたらいいかな……」
「やっぱりそうだよね!? うーん、たまに僕がお空から呼んでみるとか? おーい、って」
「無理よ。いつも呼べるわけじゃないでしょ? 私はいつもずっとスイが傍にいてくれないとダメ」
「えー!? じゃあ、僕が薬草取りに行ってる間、いつもどうしてるの!?」
「こっそりついて行ってる」
「そ、そうなの!?」
「うふふっ。嘘。……けれど、もしスイがいなくなっちゃったら、私はたぶんずっと空を見上げてるわ」
「……空を……」
「ええ。そこにスイがいるのねーって。毎日見上げてる」
「じゃ、じゃあ、僕もたくさんフェーナのこと呼ぶからね! 待っててよ!」
「ふふっ。はいはい」
そうして、スイと出会ってから、百五十年が過ぎた。
いつかの日に約束した通り、私は毎日空を見上げては、彼に声を掛けるような、そんな生活を送っている。
健康か、不健康かと聞かれれば、概ね健康だと答えたい。
しばらく、ちょっとだけ体調を崩していたけれど、なんだかんだ今は平気。
料理に精を出したり、本を読んだり、珍しい植物を採集しに行ったり、色々なことをして過ごしてる。
スイと出会う前に続けていた、日記を付けることというのは、しなくなった。深い理由はない。
ただ、崖先に出て大海原を眺めるというのは、また日課になっていた。
相変わらず人は誰も通らないけれど、それでも、スイが向こうからまたやって来るんじゃないかと思い始めたら、眺めずにはいられなかった。
そうやって日々を過ごし、とある日のこと。
いつも通り崖先に出て、海を眺めていると、どうしてか、私は無性にスイの部屋へ入りたくなった。
別に入らないでと言われていたわけではないけれど、それまでは本当に一歩たりとも入らなかった。
スイの部屋に入れば、徐々に冷たくなっていくあの子の手の感触を否が応でも思い出してしまうような気がしたから、それで入らなかったのだ。
なのに、突如として起こった心変わり。
私はすぐにスイの部屋へと向かった。
「……ごめんなさい、スイ」
ドアノブに手をかけ、扉を開く。
部屋の中はあの時と変わらず、綺麗なまま。
辺りをゆっくり見回すと、鼻の奥がツンと痛み、視界がぼやけそうになる。
微かにスイの匂いがしたような気がした。
「……っ」
目元を袖で拭い、あの子のよく使っていた机にそっと手を置く。
そして、机の引き出しをゆっくりと引いた。
「……? ……これは……?」
そこには、藍色の液体が入った小さなガラス瓶と、何かが書かれた一枚の紙がセットで入れてあった。
他には特に何もなく、それだけといった感じ。
読んでいいのか、ちょっとだけ気になったけれど、私はその紙に書かれた文字を最初から目で追うことにした。
最愛のフェーナへ
この手紙をいつ読んでくれているかはわからない。
もしかしたら、ずっと読まれないまま終わるかもしれないし、すぐに読まれるかもしれない。
ただ、もし仮に読まれなかったとしても、君が僕の机の引き出しを開けなくてもいいほど、日々を楽しく過ごしているということになるから、それはそれでいい。どんな形であれ、僕は君に幸せであって欲しい。
さて、手紙に書く内容だけれど、これは一緒に添えてある薬品入りのガラス瓶についてだ。
今までありがとうだとか、そういうことだと思ったかい? 残念。それはたぶん、別れ際に散々言うと思うし、あんまり言い過ぎても、僕はそのことに終始して、手紙で伝えたいことを伝えられそうにない。だから、せめて文末に一言載せるだけにさせてもらうね。ごめんよ。
一緒に添えている薬品。これは、僕が人生をかけて作った、君を殺すための薬だ。
殺すための薬、と言っても、殺傷能力を高めた毒薬だとか、そういうわけじゃない。
話が長くなる。申し訳ないけれど、付き合って欲しい。
君は、昔話をしてくれる時、いつだって悲しい顔をして、孤独が嫌いだと言っていたね。
言葉には出さなかったけれど、寿命のある僕は、ずっとそれをどうにかできないかと考えていたんだ。
君が僕のために不死の薬を作ろうとしてくれていたのも、早い段階から知ってた。それこそ、十歳を少し過ぎた頃くらいからだ。
二十歳の頃、君は僕にポツリと「薬は幸せになるためにある」と言ってくれた。
僕はその時、だったら、と思ったんだ。
君に何か、幸せになってもらうための薬を作ってあげられるのは、僕しかいない。
幸せが死だというのは、考えてみればなんともおかしな話のような気もするけれど、覚えているかい? 僕は君に何度か問うた。「死がフェーナにとって、本当に幸せをもたらすものかい?」と。
君は頷いた。だから僕は、死をもたらす薬。永遠に服用した人を眠りにもたらす薬を、人生の最後の最後で作り上げることに成功した。
これを飲むと、フェーナはずっとその場所で眠りにつくことになる。恐らく、もう二度と起き上がることはない。夢の世界に行くんだ。
そうしたら、僕はそこにいる君を迎えに行きたいと思う。
今度は、僕が君を抱き上げて。
スイより
手紙を読み終えて、私はしばらく茫然とその場に立ち尽くした。
そして、スイと出会う前に考えていたことを、ふと思い出した。
ここに誰かが船でやって来たら、その時は一緒に大陸へ連れて行ってもらおう。
確か、こんなことを考えていたはず。
思い出したら、ついつい小さく笑ってしまった。
こんな形で、それが叶えられるなんて、と。
私は、ゆっくりとガラス瓶の栓を開け、それを飲み干す。
最後に聞こえてきたのは鳥の鳴き声と、それから、波が岸に打ち付けられるような、そんな音だった。
何度目だろう。海を見つめてため息をつくのは。
「三十万と……千二百……三回……? ううん、たぶんもっとよ……」
数えてもないのに、指折りながら適当な数字を口に出してみる。
そうすれば、ちょっとは暇と孤独が紛れるかもしれないと思ったから。
けれど、それは失敗だった。
目の前に広がる大きくて広い海と、崖下に打ち付けられる波の音が、孤独であることをこれでもかというほどに突き付けてくる。数字を言ってみたりだとか、その程度のことでこれは簡単に解消されることじゃなかった。
「……ダメね。景色ばかり眺めてたら、すぐにむなしくなる。日記でも付けよ。天気だけはこんなにもいいんだから」
独り言を呟き、花の咲き誇る崖の上で腰を下ろした。そして、手に持っていた分厚いノートを広げる。
そこに、とにかく見たものと思ったことをつらつらと書いていく。
日々の感動なんてものはあんまりない。
なぜなら、私――フェーナは魔女であり、この無人の小さな島にて、千年もの間たった一人で暮らしてるから。
千年もあれば、色々と極めたいものも極めることができるし、やりたいことだってやれる。この島のことだってなんだってわかる。
薬作り、料理、魔法の研究、物語を書くことなどなど、挙げ始めればキリがない。
つまるところ、私は不老不死。老いたりもしないし、死んだりもしない。
魔女の特権というものなんだろう。
こんな特権、もう捨ててしまいたいんだけれど。
「……花、今日も綺麗。白色。精神安定薬のいい素材になりそう……」
書きながら思った。この文、一昨日も書いた気がする。一昨日の前は三日前。三日前の前は二日前にそれぞれ同じこと書いてる……。
ペラペラとページをめくってそんな事実に気付く。
げんなりしそうになったけれど、首を横に振って気持ちの立て直しを図った。
いやいや、そんなこと言ってたらそもそも書くことがなくなる。これでいい。とにかく何かが書ければ、それでいい――
「ってことにはやっぱりなんないわよ……。日記を書くのなら、何か別のことが書きたいに決まってる……」
気持ちの立て直しは無理だった。
何時間経っても、何日経っても、何年経っても、来る日も来る日も同じことを一人でやるだけ。
薬作りだって得意だけれど、今はもうほとんどやってない。
理由は単純で、この地に人が来なくなったから。
千年より前は、崖の上から大海原を眺めていると、必ず一つや二つは船が通り過ぎていってた。
そのたびに、人々へ作った薬をあげたりしたものだ。中には料理を振舞ったりしたことだってある。
お返しとして、人間はこの地以外のことを知らない私に、色々なことを教えてくれた。
それがある種私の楽しみだった。
だから、ここ千年、人が来なくなってしまった今でも、こうして崖の上から大海原を眺め続ける。
もしかしたらまた誰かが来るかもしれない。
誰かが来て、人間の間であったことを楽しげに語ってくれるかもしれない。
そうしたら、私には決めてることが一つある。
思い切り歓迎してあげて、会話して、その人の乗って来た船に私も乗せてもらうのだ。
それで、どこでもいいから、島じゃない陸続きの大陸なんかに下ろしてもらう。
そして旅をする。色んな土地に行って、色んなものを見て、その中で親しい人を作って、もう一人じゃないようにして生きていきたい。
それが今の私の夢。
……けれど、今日もこの大海原に誰かが船で通り過ぎる気配はなかった。
戦争でもあった?
それで人は滅んでしまった?
だったら、こうして誰かを待つのも無駄なの?
わからない。誰も私に何があったのか教えに来てくれないから、わからない……。
「………………」
考え込み始めると、次第にノートへ文字を書き込むことだって億劫になってきた。
私はおもむろに立ち上がり、ゆっくりと崖下の見えるところまで歩いた。
どうせ崩れたって、不死身な私は死んだりしない。
すごく痛い思いはするかもしれないけれど、怪我をすぐに治す薬だって持ってるし、何よりも、痛い思いをすることで、非日常を得られるかもしれないと考えると、なぜかそれほど嫌じゃなくなってる自分もいた。
……とにかく、大丈夫。
千年の間で、崖先に座って足をプラプラさせながら海を眺めたことなんていくらでもある。簡単に崩れはしない。
そんなわけで、じりじりと進んでる時だ。
ふと、何か叫ぶような声が聞こえた。
動物?
そう思い、振り返って木々の生い茂る方へ視線をやってみたけれど、どうも声がするのはそっちからじゃない。
声は海からだった。でも、海の生き物で叫び声を上げることのできるものっていたかしら?
さっきまで静かだった心臓がドクドクと跳ね始める。
私は必死に声の主を見つけるため、辺りをキョロキョロと見回した。
徐々に聞こえる声は大きくなってくる。
「……! 間違いないわ! これ、人の……赤ちゃんの鳴き声よ!」
私の推測は正解だった。
遠く、向こうの方から波に揺られてくる小さな箱のようなもの。
声はそこからしていて、肌色が微かに見える。
「ちょっと待ってて!」
気が付けば、私は走っていた。
花園を抜け、森を抜け、下へ下へと下っていく。
崖下に着いた時、赤ちゃんを乗せた小さな箱は、ちょうど私の辿り着いたところへゆっくり流れ着こうとしていた。
奇跡的だ。まるで波がその子を私の元へ運んでくれてるようだった。
「それにしても、どうして人間の赤ちゃんが流されてきたの……? しかも、こんな小さな箱に乗せられただけでよく溺れなかったわね」
箱から赤ちゃんを抱き上げ、様子を確認する。
どこから流されてきたのか、なんで海に放り出されたのか、そんなことは知る術もないけど、一つだけ言えることは、驚くほどに健康的だということだった。
特に痩せてる風にも見えないし、汚れてもない。お腹が空いてるからか、さっきからずっと泣いてはいるものの、それ以外まるで異常が見当たらない。
「……不思議だわ。この近くに島なんてないし、どこかから来ようと思えば船で何十日もかけないといけないはずなのに……」
しかも箱で流されるだけとなれば、それこそ何百と日数がかかる。普通に考えてそんな長時間何も食べなかったら死んでしまう。この子はいったい何者なんだろう。
「私と同じ魔女? ……いや、男の子だし、それはないわね。だったら……その魔女や魔人の子どもだとか……?」
だとしても、何も食べなかったら元気がなくなるし、汚れはする。その線もなさそうだ。
「本当にあなた何者なの……?」
抱いているその子を見つめながら首を捻っていると、さらにわんわん泣き始めた。そして、おしっこもし始める。
私は焦って家に戻った。
赤ちゃんのためのものがあるわけじゃないけれど、おむつの代わりになる布だったり、食事の作り方くらいは知ってる。昔来てくれた人間たちが教えてくれた。
「ちょっと待っててね。すぐに綺麗にしてあげるし、ご飯もあげるから」
走りながらなだめても、赤ちゃんには通じない。
そんなことはいいから早く走れと言わんばかりに思い切り泣かれ続けた。
私は苦笑し、走るのだった。
まさかこんなことになるなんて、と心の中で思いながら。
人と会わなくなってから千年。
孤独な日々を送る私に潤いを与えてくれたのは、たった一人の人間の赤ちゃんだった。
私は赤ちゃんに『スイ』と名付けた。
海水に流されてやって来たし、水は何かを潤す。
何かと水に関係のあることが多かった。だから、スイ。
なんとなく適当に名付けたけれど、スイはこの名前をとても気に入ってくれた。
私が名前を呼んで頬を撫でてあげると、楽しそうに微笑んでくれるし、指を握る力も強くなる。
この名前を気に入ってくれたに違いない。
そうして始まったスイとの生活は、何もかもが初めての体験だらけで、最初の内はとても大変だった。
お腹が減った、おしっこなどをしたということで泣くのならわかるのだけれど、時折よくわからない理由で泣いて、泣き止んでくれないから幾度となく不安にさせられたし、そのタイミングもまばら。
私の寝てる夜に泣き出せば、薬作りとか、植物採集してる時に泣くこともあったから、生活リズムがかなり狂ったりもした。
一度、あまりにも人間の赤ちゃんのことがわからず、書庫に行って赤子の本がないか探してみたけど、そんなものはやっぱりなかった。
人の赤ちゃんについて、もう少し立ち寄った人間から聞いておけばよかったと後悔もしたけれど、まさか自分が育てる立場になるなんて想像もしてなかったから、そればっかりは仕方ない。
苦労はしたものの、それ以上にスイはどうしようもなく可愛かった。
ちょっとずつ、ゆっくり、ゆっくりと色々なことができるようになり、その一つずつを一緒に喜んだ。
そうして、出会ってから一年ほど経ったある時、遂に歩けるようになり、スイは私のことをたどたどしく名前で呼んでくれた。
フェーナ、と。
嬉しいなんてものじゃなかった。
誰かに名前を呼ばれたのは久しぶりだし、少しずつ成長してるスイが実感できて、思わず涙が出てしまった。
「ふぇーな!」
「うん。私はフェーナよ。あなたの名前はスイ。す・い」
「しゅ……い……」
「そう。スイ」
「しゅい……」
「ふふっ。そうそう。スイよ。スイ」
「しゅい!」
まだちゃんと『す』は発音できないみたいだけれど、にへ、と笑うスイを優しく抱きしめた。
そして、嬉しさと幸せな思いのままに、家を出てすぐ目の前にある花園へと一緒に向かう。
これから、この子には私の知ってることを全部教えてあげよう。
寿命の続く限り、スイが望むように、幸せになるように。
それが当面、私の幸せにもなるから。
スイが私の名前を呼んでくれるようになってから、十年ほどが経過した。
十年と言えば、私にとってはそれほど長い時間ではないけれど、短いかと聞かれれば、そうとも言えないと答えるであろう中途半端な時間だ。
けれど、人間にとって十年は結構なもののようで、スイは心身ともに大きく成長した。
初めのうちは男の子か女の子か、しっかり確認しないとわからなかったけれど、幼いながらも外見だけでそれは大方判断できるようになった。
ちゃんと私とも会話できるようになったし、文字も読めるようになった。
本当に、泣くしかなかった赤ちゃんが、よくここまで成長できるものだ。
日々、感動は尽きない。
ただ、一つだけ気がかりなことがあった。それは――
「ただいま、フェーナ! 頼まれた薬草、ちゃんと取ってきたよ!」
考え事をしながら薬草の本をめくっていると、家の玄関を開け、スイが帰って来た。
私は本を閉じ、すぐに玄関の方へと向かう。
「おかえり、スイ。大丈夫だった? 動物に襲われたりしなかった?」
「うん、大丈夫。はいこれ」
スイは取ってきた多種多様な薬草を袋ごと私に渡してくれる。
私は中身を確認するより前にスイの頭を撫でた。
「今日もありがとね。でも、無理はしないで。あんまり危険なところに行ってしまうと、怪我しちゃうから」
「そんなの大丈夫だよ。フェーナが教えてくれた『あんぜん』なとこ通って探してるし」
「……そう?」
「うん! 薬作り大変でしょ、フェーナ。だから、僕もお手伝いしたいんだ。お手伝いして、早く終わらせて、一緒に花園で遊ぼ! また前みたいに!」
「……スイ……」
この時の私は、やめていたはずの薬作りをまた新たに再開させていた。
スイの体調が悪くなった時のためのもの?
そう思うかもしれないけれど、実のところを言えばそうじゃない。
私は人が……スイが死なないための不死の薬を開発しようとしていたのだ。
流れる時と共に大きくなっていくスイを見ていると、十年、二十年、三十年と、あっという間に過ぎて行ってしまう。
八十年も経てば、スイはもしかしたらもうこの世にいないかもしれない。
私はたまにそのことを想像して、一人震えていた。
この子がいなくなれば、私はもう一人でやっていける自信がない。
私はスイを心の底から愛している。
スイもそれは同じだと思う。
毎日一緒にいて、生活して、この島で生きて……。
だから死なせない。人の寿命なんてものは、私が全力で引き延ばしてあげなければいけないのだ。
「……フェーナ? どうしたの? ボーっとして」
「あ、ごめんねスイ。ちょっとまた考え事してたわ。大丈夫、何でもないから」
「まだ……お薬作るの終わりそうにない……? 花園で遊べない……?」
「……いいえ。今作ってるお薬が終わったら、いったん遊びに出掛けましょっか」
「! ほんと!?」
「ええ。本当よ。花園以外にも、どこかへ行ってみましょ」
「うん!」
晴れやかな笑顔を浮かべ、喜ぶスイ。
それを見て、私はより一層不死の薬への思いを強めていくのだった。
不死の薬を作り始めてから、十年ほどが経った。
相変わらず私にとっては数えるほどの時間でもないのだけれど、スイにとっての十年はこれまた相変わらずかなり大きかった。
二十歳を迎え、十歳の時よりも背が伸び、声が低くなり、筋肉も付いた。昔やって来ていた人間の男により一層近付いていったわけだ。
同じ人間だからそれは当然なのだけれど、間近で成長を見ていると、命のはかなさをひしひしと感じてしまう。
そんな私はと言えば、未だに薬を完成させることができていなかった。
何度も何度も何度も、試行錯誤を繰り返したところで、上手くいかない。
魔女と違って、人の細胞の再生破壊の回数は定められていて、有限なのだ。
その有限の壁をどうにか壊してやろうとするわけだけれど、本当に何をやっても上手くいかない。
私はあまりのどうしようもなさに頭を抱え続けた。
そして、ある時スイに聞いてみた。
「死ぬことについて、どう思う?」と。
初め、スイは驚いてるみたいだった。
いきなりどうしたの? 何でそんなことを?
読んでいた本から顔を上げ、首を傾げ、心配そうな表情を作ってくれる。
だから、私は付け加えるようにして説明した。
「私は魔女だから死なないし、死ねない。スイは人間。死についてどう思うか、単純に気になったの」
「そんなの、僕にだって今はわからない。想像できないよ」
「……じゃあ、聞き方を変えるけれど、死ぬのは怖い? 当然嫌よね? 痛い思いをするかもしれないし、苦しい思いをするかもしれないし、それに――」
「……フェーナ……?」
言いかけて、やめる。
勢いに任せて何もかもを言ってしまうところだった。不死の薬のこととか。
「……とにかく、ね……。スイは……死ぬのが嫌でしょ……? そうよね?」
首を縦に振る。そうに決まってると思った。
けど、だ。
「そんなことはないよ。別に嫌とか、そういう気持ちはない」
少し間を置いて、柔らかい表情でそう言われた。
私は虚を突かれ、思わず「え」と声を漏らしてしまう。
「……どうして? どうして死ぬのが怖くないの?」
「うーん。理由を聞かれるとちょっと困るんだけど……しいて言えば、僕が人間だからかな?」
「人間……だから?」
言ってることの意味が分からない。
疑問符を浮かべていると、スイはニヤッと意地悪そうに笑う。
「そりゃ、さっき言ってくれた通りフェーナは魔女だし、そういう人間の感情はわからないだろうけどさ」
「なに? 人間には死を恐れない特別な感情があるって言うの? 虫でも動物でも、死のある生き物はみんな死ぬのが怖いと思うのだけれど?」
「ははっ。まあ、一般的にはそうかもしれない。虫とか動物にはあんまり感情とかないからね」
「……?」
「要するにさ、僕は人間で色々と感情がある。感情があるから、大好きなフェーナの傍にずっといられて嬉しいし、幸せだし、そんな人生を最後まで送ることができるのなら、死ぬことなんて全然怖くないんだよ。つまり、そういうこと」
「え……」
「好きだよ。フェーナ」
唐突な告白だった。
いや、わかってはいた。私もスイが大好きで愛してるし、スイも私が好きだってことくらい。
けれど、こうして面と向かって「好き」と言われると、どうにもよくわからない気持ちになってしまう。
今まで一人で過ごすことの方が多かったから、こういうのは初めての体験だし、そもそもスイは私の子どもみたいなものだと思うし、もっと言えばなんでこんなことでドキドキしてるのかとも思うし……。
とにかく、すぐさま冷静になるよう努めた。
私とスイはいわば親と子みたいな関係。そこに人間で言う恋愛的感情なんてあるはずなんだ。
落ち着きなさい私。何を考えてるの……。
グルグルと混乱の渦に飲み込まれ、下を向きながらブツブツ言ってると、ふと目の前に人の気配を感じる。
見上げると――
「どうしたのフェーナ? やっぱり今日なんか変だよね?」
「あ;@づっ!?」
ゼロ距離まで接近していたスイの顔に、私は言葉にならない声を漏らすしかなかった。
そして、反射的に後退する。
「フェーナ、大丈夫? 体調悪い?」
「いいいいやいやいや、そそそ、そうじゃないの! 私は魔女だし、体調なんて滅多に悪くなることなんてないし、いざとなれば作り置きしておいた薬がたくさんあるから!」
「そう? ならいいんだけど。変な質問してくるし、どこか悪いのかと思った」
「あはは……。ごめんなさいね……心配かけて……」
「謝らないでよ。僕なんて何度もフェーナに助けられてるし、だからフェーナがピンチになった時は僕が助けになるからさ」
「……うん。ありがとう。スイ」
私は作り笑いを浮かべるしかなかった。
「あ、そうだ。午後のおやつの時間がまだだったわね。クッキーとお茶出してくるから、そこで待ってて」
「それなら僕も手伝うよ。一緒にキッチンに行こう」
「そ、それくらい一人でできるから! いいからスイはそこで待ってて! いい? 大人しくしてるのよ?」
「ははっ。はいはい」
どうも、スイの手のひらの上で転がされてる感じが否めない。
焦りながらも、私は慌ただしくすぐそこにあるキッチンへと向かった。
何度も言うけれど、血のつながりがないにせよ、スイに恋愛感情は抱くわけにはいかない。
それに、そんなことよりも今は他に問題がある。
スイは死を恐れていないと教えてくれた。
そういうことなら、その考え方は、今私が必死に成し遂げようとしてることと反してるということだ。
だったら、もういっそのこと不死の薬作りなんてやめてしまったらどうだろう。
そう、心の中の怠惰な自分が囁くのだけれど、私はそれを受け入れるわけにはいかなかった。
薬作りを止めてしまった途端、スイが亡くなってしまった途端、私は孤独になってしまう。
それだけは……もう耐えられそうにない。
「でもさ、フェーナ」
「! え、な、何かしら?」
いきなり名前を呼ばれ、私は過剰に反応してしまった。
それを見て、スイはからかうようにクスクス笑う。
なんか、こういうとこだ。まさに手のひらの上で転がされてる感じ……。
うーん、しっかりしなきゃ。
咳払いを「こほん」とし、ちょっとだけ発声をよくしてから、もう一度「何かしら?」と言った。
すると、スイはさらにクスクス笑う。
もう……本当に……。
「あのさ、さっき質問してくれたから、これはお返しなんだけど、フェーナ自身がもしも死ぬことのできる体になったとしたら、それはどう思うかな?」
「え?」
「人間になることができたらーとは言わないけど、僕と同じくらいの寿命で死ぬとしたらどう思う?」
「それは……嬉しいわ。願わくば、そうならないかしらって思うくらい。そんなこと、あるわけがないから、あまり考えたことがなかったけれど」
「本当に? 後悔とか、もっと生きたかったとか、死に際になってそういうこと考えたりしないって自信ある?」
「あるわよ。だって、もう無駄に生き過ぎなんだもの……」
「……そっか」
質問の意図は敢えて聞かなかった。
聞いたら、なんとなく空気が重くなりそうな気がしたし、おやつの時間は楽しく会話したい。
だから、それ以上死について聞くことはやめた。
「ねえ、フェーナ。ならさ、僕にも薬の作り方、本格的に教えてよ」
「え? スイが薬を? どうして?」
「ん、まあ、僕もフェーナみたいにいつか誰かを助けられるような薬が作れたらなって」
「……そう。なら、いいわよ。簡単なものから作っていきましょうか」
私が言うと、スイはニコリと微笑み、「やった」と一言口にしながら喜んだ。
二十歳になっても、この子は素直なままだ。
だから、それが故に、死が怖くないというのもまた本音なのだろう。
そう言われてしまうと、スイの命を私の薬で勝手に引き延ばしていいのか、不安になってくる。
「薬は……誰かを幸せにするために存在するものだから……」
「へ? いきなりどうしたのフェーナ?」
「あっ、う、ううん! 何でもない! ちょっと考え事してて、それが口に出ちゃってたわ」
「へー。でもそれ、これから僕に薬の作り方教えてくれるうえで重要だったんじゃない? ちょうどよかったってやつ!」
「まあ……ふふっ。そうなのかもしれないけれど」
「だよねー! 得した気分!」
「でも、こういう独り言はなるべく聞き流して欲しいわ、スイ。私、独り言喋っちゃうのが癖みたいなところあるから」
「それは無理かなー」
「もう……」
スイはニヒヒと笑った。
それを見て、表面上呆れながらも、私は釣られて頬を緩めてしまった
気恥ずかしさと同じくらい、誰かに独り言を聞かれることが嬉しくもあったから。
それから、さらに時間は早く過ぎていった。
十年、二十年、三十年と、気を抜いてしまえばすぐに瞬間瞬間が過去のものになってしまう。
スイも年月とともに、目に見えて体が老化していった。
まだまだ大丈夫、なんて口癖のように言ってるけれど、ずっと傍にいるのだ。細かな衰えが把握できないほど、私の目は落ちぶれてはいない。
そのくせに、私が教えた薬作りだけはずっと続け、あれがない、これが足りないと、よく森や海、洞窟などに出向いていた。
体調が悪い日でもそれはやめない。
何度か注意して引き留めようとするものの、それが理由で喧嘩してしまったこともあった。
「こんなことになるなら、薬作りなんて教えるんじゃなかった」
そう私が呟くと、スイは悲しそうな顔をして、それでも何も言わずに家から出ていった。
そんなスイは、七十歳になった年、大きな病を患った。
それまで歩けていた距離が歩けなくなったり、食欲もなくなり、いくつもの薬を服用することで、どうにか実生活を送れるというレベルまで体力が落ち込んでしまったのだ。
私の作る不死の薬は、未だ完成しない。
心底焦っていた。
時間がない。とにかく、時間がない。
スイはあとどれくらい生きることができるのか。
一年? 二年? それとも、もっと短い?
明確にわからない中で、完成しない薬の研究を一人で黙々と行う。
自分に対して苛立ちを覚えないはずがなかった。
けれど、その苛立ちだけは絶対にスイに見せない。
そう、心に誓いながらいつも通り振舞っていたつもりだった。
「フェーナ、もうそれは作らなくていいんだよ」
ある日の夜。
積み重なった失敗作の数々に埋もれる実験室内で、途方に暮れ、机の上に顔を伏せていた私は、背から声を掛けられ、ハッとする。
「スイ……!?」
すぐさま振り返ってみるものの、そこには誰もいない。
おかしい。確かにスイの声が聞こえたのに。
「……もしかして……」
瞬間的に嫌な予感がした。
私はすぐに部屋を飛び出し、スイの元へと向かう。
おやすみの挨拶を交わした時は元気だった。
そんなことがあっていいはずがない。
最悪な状況がやって来るには早すぎる。早すぎるのだ。
「スイ、大丈夫!?」
バン、と叩くようにしてスイの部屋の扉を開ける。
『いきなりどうしたの? 心配性だなぁ、フェーナは』
苦笑交じりに笑ういつもの彼の姿。
幼かった時も、大人になった時も、おじいさんになった時も変わらない、いつものスイ。
今回だってそうやって私を迎えてくれるはずだ。
そう思ってた。
けれど――
「フェー……ナ……」
「スイ!」
ベッドの上で横たわる彼は、すごく苦しそうに私の名前を呼んでくれる。
たまらず、すぐに駆け寄って背中をさすってあげた。
「苦しいの……? どうして……? 寝る前に薬飲んだはずなのに……!」
「フェー……ナ……」
「私ならここにいるわよ! 大丈夫! 絶対に大丈夫だから!」
言って、ポケットに入れていた緊急用の錠剤箱を急いで取り出す。
水は部屋に置いてあるから、それと一緒に、もう一度薬を飲ませようとした時だ。
ゆっくりと、弱々しく、スイの手が私の手の上に置かれた。
「……フェーナ……。それは……もういいんだ……」
「もういいって、でも飲まないとあなたの体調が!」
「……いい……いいから……。……思った以上に厄介なんだよ……僕の病これは……。……フェーナは……悪くない……」
「そんなことないわよ! 舐めないで、私は千年以上生きてる魔女よ!? たかが人の病気なんて治す薬はたくさん持ってるし、作れるの! だから飲んで! 早くっ!」
「………………」
「スイ! お願い! 薬を……飲んで……! ……お願い……だから……!」
水を入れたコップと、薬を持つ手が震える。
スイはニコリと微笑むだけだった。薬を受け取ってはくれない。
膨大な時間があった中で、いったい私は何をしてたんだろう。
くじけそうになってる暇なんてなかった。落ち込んでる暇なんてなかった。そんな無駄な感情を抱いてる暇があったら、考えて考えて考えて考えて考えて、実践して実践して実践して実践して実践して、もっともっともっともっともっともっともっともっともっと研究をしていればよかった。
目の前で苦しそうにしながら、それでも私を安心させようとしてくれてるのか、笑むスイの顔を見ていると、悔しくて涙が止まらなかった。
「……日記帳……」
「……?」
「これは……さ……、今だから言えるし……勝手に読んでしまったことは……謝らないといけないんだけど…………、フェーナの書いてた日記帳を……だいぶ昔に……読んだんだ……」
「え……?」
「文字が……読めるようになった頃から……かな……? 隠れて……読み進めて……僕が君と出会うまで……どんな生活をしてたか……全部そこから……知った……」
「っ……」
「それから……人間のくせに……僕は偉そうなことを考えるようになったんだ……。ずっと……君の傍にい続けようって……。君を……幸せにしようって……。…………もう、孤独にはさせない……って……」
「……! ……そ、そんな……偉そうだなんて……!」
「……いや、偉そうだ……。……現に僕は……今君を……悲しませてしまってるし……、……ここしばらくは……ずっと君に心配ばかりかけて……自分の行動ばかりを優先してた……体が悪いのに……ね……」
「そ、それは……! ……スイがやりたいことを尊重してあげるって、私も心の中で決めてたの! だから、半分は私のせいでもあるし、それに対して不機嫌になるのは、自業自得で私が悪いから! スイは自分を責めなくていいのよ!」
必死に伝えようとして言うけれど、スイは「はは」と笑うだけだった。
そして、続ける。
「……ありがとう……フェーナ……。……でも……そうはいかないんだ……。僕は君のことが……一人の女性として……大好きだから……。最後まで……君には……男として……見られなかったんだけど……」
「そんなことない! スイはかっこいいわよ! かっこよくて、私にとってもすごく大切な人で…………っ! …………ずっと……大好き……なんだから……!」
上手く口が回らない。
最期はそこまで迫ってきている。
涙ながらに言って、彼の手を握るのだけれど、力は確実に弱ってきていた。
彼はそんな私に対し、ありがとうと、ごめんを何度も言い続ける。
それを聞いて、なおさら涙が出た。
どこかに行って欲しくない。ずっと傍にいて欲しい。
感情はないまぜになり、ただただそんな思いで手を強く握り続け、嗚咽することしか私にはできなかった。
本当に……本当に……愚かな魔女だ……。
「……フェーナ……」
名前を呼ばれるけれど、返事ができない。
「……泣かないで……」
いつかの時とは真逆だ。
昔、泣くスイを何度も慰めたことがあった。
なのに、今は私がスイから慰められている。
そうやって昔を思い出すと、また泣けてしまう。
スイを砂浜で抱き上げた時、やっと歩けるようになった時、初めて私の名前を呼んでくれた時……。
その何もかもが一気に思い出されて、私は顔を上げることができなくなってしまった。
「……かないで……」
「……?」
「行かないで……スイ……」
「………………どこにも行かないよ。僕は……ずっと君の傍にいる……。ずっと……ずっとだ……」
優しく、私の頭に触れるその手は、朝日が昇るその時まで置かれていた。
黒く塗られた夜の空には、決まって満点の星たちが私を歓迎してくれる。
この島は、晴れた日が多い。
だから、空に雲が漂っていることも少なく、星もたくさん見ることができる。
星は、いつも私を見守ってくれているのだ。
「フェーナ。僕がもし死んじゃったら、フェーナはまた一人になるの?」
「んー、あんまり考えたくないけれど、そうかもしれないわね」
「……悲しくない? 寂しいよね? 大丈夫なの?」
「大丈夫なわけないわ。スイが死んじゃったら、私、たぶん生きていけない。どうしたらいいかな……」
「やっぱりそうだよね!? うーん、たまに僕がお空から呼んでみるとか? おーい、って」
「無理よ。いつも呼べるわけじゃないでしょ? 私はいつもずっとスイが傍にいてくれないとダメ」
「えー!? じゃあ、僕が薬草取りに行ってる間、いつもどうしてるの!?」
「こっそりついて行ってる」
「そ、そうなの!?」
「うふふっ。嘘。……けれど、もしスイがいなくなっちゃったら、私はたぶんずっと空を見上げてるわ」
「……空を……」
「ええ。そこにスイがいるのねーって。毎日見上げてる」
「じゃ、じゃあ、僕もたくさんフェーナのこと呼ぶからね! 待っててよ!」
「ふふっ。はいはい」
そうして、スイと出会ってから、百五十年が過ぎた。
いつかの日に約束した通り、私は毎日空を見上げては、彼に声を掛けるような、そんな生活を送っている。
健康か、不健康かと聞かれれば、概ね健康だと答えたい。
しばらく、ちょっとだけ体調を崩していたけれど、なんだかんだ今は平気。
料理に精を出したり、本を読んだり、珍しい植物を採集しに行ったり、色々なことをして過ごしてる。
スイと出会う前に続けていた、日記を付けることというのは、しなくなった。深い理由はない。
ただ、崖先に出て大海原を眺めるというのは、また日課になっていた。
相変わらず人は誰も通らないけれど、それでも、スイが向こうからまたやって来るんじゃないかと思い始めたら、眺めずにはいられなかった。
そうやって日々を過ごし、とある日のこと。
いつも通り崖先に出て、海を眺めていると、どうしてか、私は無性にスイの部屋へ入りたくなった。
別に入らないでと言われていたわけではないけれど、それまでは本当に一歩たりとも入らなかった。
スイの部屋に入れば、徐々に冷たくなっていくあの子の手の感触を否が応でも思い出してしまうような気がしたから、それで入らなかったのだ。
なのに、突如として起こった心変わり。
私はすぐにスイの部屋へと向かった。
「……ごめんなさい、スイ」
ドアノブに手をかけ、扉を開く。
部屋の中はあの時と変わらず、綺麗なまま。
辺りをゆっくり見回すと、鼻の奥がツンと痛み、視界がぼやけそうになる。
微かにスイの匂いがしたような気がした。
「……っ」
目元を袖で拭い、あの子のよく使っていた机にそっと手を置く。
そして、机の引き出しをゆっくりと引いた。
「……? ……これは……?」
そこには、藍色の液体が入った小さなガラス瓶と、何かが書かれた一枚の紙がセットで入れてあった。
他には特に何もなく、それだけといった感じ。
読んでいいのか、ちょっとだけ気になったけれど、私はその紙に書かれた文字を最初から目で追うことにした。
最愛のフェーナへ
この手紙をいつ読んでくれているかはわからない。
もしかしたら、ずっと読まれないまま終わるかもしれないし、すぐに読まれるかもしれない。
ただ、もし仮に読まれなかったとしても、君が僕の机の引き出しを開けなくてもいいほど、日々を楽しく過ごしているということになるから、それはそれでいい。どんな形であれ、僕は君に幸せであって欲しい。
さて、手紙に書く内容だけれど、これは一緒に添えてある薬品入りのガラス瓶についてだ。
今までありがとうだとか、そういうことだと思ったかい? 残念。それはたぶん、別れ際に散々言うと思うし、あんまり言い過ぎても、僕はそのことに終始して、手紙で伝えたいことを伝えられそうにない。だから、せめて文末に一言載せるだけにさせてもらうね。ごめんよ。
一緒に添えている薬品。これは、僕が人生をかけて作った、君を殺すための薬だ。
殺すための薬、と言っても、殺傷能力を高めた毒薬だとか、そういうわけじゃない。
話が長くなる。申し訳ないけれど、付き合って欲しい。
君は、昔話をしてくれる時、いつだって悲しい顔をして、孤独が嫌いだと言っていたね。
言葉には出さなかったけれど、寿命のある僕は、ずっとそれをどうにかできないかと考えていたんだ。
君が僕のために不死の薬を作ろうとしてくれていたのも、早い段階から知ってた。それこそ、十歳を少し過ぎた頃くらいからだ。
二十歳の頃、君は僕にポツリと「薬は幸せになるためにある」と言ってくれた。
僕はその時、だったら、と思ったんだ。
君に何か、幸せになってもらうための薬を作ってあげられるのは、僕しかいない。
幸せが死だというのは、考えてみればなんともおかしな話のような気もするけれど、覚えているかい? 僕は君に何度か問うた。「死がフェーナにとって、本当に幸せをもたらすものかい?」と。
君は頷いた。だから僕は、死をもたらす薬。永遠に服用した人を眠りにもたらす薬を、人生の最後の最後で作り上げることに成功した。
これを飲むと、フェーナはずっとその場所で眠りにつくことになる。恐らく、もう二度と起き上がることはない。夢の世界に行くんだ。
そうしたら、僕はそこにいる君を迎えに行きたいと思う。
今度は、僕が君を抱き上げて。
スイより
手紙を読み終えて、私はしばらく茫然とその場に立ち尽くした。
そして、スイと出会う前に考えていたことを、ふと思い出した。
ここに誰かが船でやって来たら、その時は一緒に大陸へ連れて行ってもらおう。
確か、こんなことを考えていたはず。
思い出したら、ついつい小さく笑ってしまった。
こんな形で、それが叶えられるなんて、と。
私は、ゆっくりとガラス瓶の栓を開け、それを飲み干す。
最後に聞こえてきたのは鳥の鳴き声と、それから、波が岸に打ち付けられるような、そんな音だった。