湖面に写る月の環

39

「やる」
「えっ?」
「僕、ドレスコードなんて持ってないから」
そんなにいい会場なら、ドレスコードがあるのは当然のこと。しかしそれが出来るほどの経済力を、僕の家は持っていないのだ。
(スーツも一着もないのに)
大体制服だって、両親の血の滲むような働きのお陰で買えたようなものだ。それに加え、ドレスコードまで用意してくれなんて言えない。
「でも誘われたのは君だろう?」
「今からバイトを詰めたとしても、無理なものは無理なんだ。それに、僕は岡名さんとそんなに仲がいいわけじゃない」
「君ってやつは……」
「いいから、受け取れって!」
何か言いたげにこちらを見つめるちゅう秋の視線を振り切るように、僕は封筒を押し付けた。――そもそも、僕なんかに招待状が来る方が可笑しいのだ。ちょっと話しただけ。探偵少年のように依頼を受けたわけでも、ちゅう秋のように横の繋がりがあるわけでもない。ただただ、彼等に偶然会って巻き込まれているだけの凡人なのだ。そんな自分が行ったところで恥をかくのが関の山。岡名の名誉のためにも、自分よりちゅう秋が行った方がいいだろう。
「……そこまで言うなら、受け取るよ」
「ああ。彼女を誘って一緒に行ってこい」
「そうだね。そうするよ」
押し付けたままの封筒が、ちゅう秋の腕に渡る。それが何だか自分の身分を再確認させられた気分になり——僕は咄嗟に俯いた。
(これで良かったんだ)
そう。これで合っている。そりゃあ、上流階級の人たちが集まるパーティーに興味がないかと言われれば嘘だけれど、それでも遊びで行くような場所ではない事はもう大人である自分には理解できているつもりだ。僕はちゅう秋の視線を振り切るように体を前に向けると、チャイムの音を耳にする。何だ、珍しくタイミングがいいじゃないか。

――そう、思っていたのに。
「なんで僕がここにいるんだ⁉」
「俺が連れてきたからだな」
皺ひとつないスーツに身を包んだちゅう秋が笑う。僕は引き攣る頬で自身の姿を見下ろした。ちゅう秋と同じ、皺ひとつないスーツ。茶系のそれは、どこぞの金持ちが着ていそうな上品な肌触りをしている。黒い靴はつま先までしっかりと磨かれており、髪は前髪から全て後ろへと撫でつけられている。
「どうしてこんな格好……」
「君が言ったんじゃないか。ドレスコードが必要だって」
「それはそうだけど!」
「うん、似合ってるよ」
「ッ!」
ネクタイをきゅっと締めたちゅう秋が、にこりと笑みを浮かべる。……くそ、顔が整っている奴はどんな顔をしていても得だな。
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