黒と青、灰色の世界で。
もう一度、俺の隣で笑って。
半袖か長袖か。どっちを着るか悩み始める中途半端な季節。"始まり"から2年半が過ぎた頃のとある夜に。
『陸斗くん、別れよっか』
部活からの薄暗い帰り道。彼女―――心菜が突然、特別な関係に終わりを告げた。
だけど、心菜が放った言葉は全く俺には届かなくて、一歩後ろで立ち止まった心菜の方へ冷静に振り返った。
だって、あまりにも突然だったし、心菜はいつものごとくへらりと笑ってる。なにが面白くて浮かべてんのかわかんねぇ、感情を隠すみたいな笑い。
心菜がなにを思ってんのか、考えてんのか。わかんなくなったのはいつからだっけ。
あぁ、なんかイライラしてきた。
『……馬鹿じゃねぇの』
話を続けたくなかった。吐き捨てるようにそう残して、動こうとしない心菜を置き去りにした。
これでいい。なにも変わらない。なに一つ変わることはない。どうせ、明日にはまた帰り道にあるハンバーガー屋で買い食いして、くだらねー話をしながら帰る。さっきのは……心菜のつまらない冗談だろ。
そう信じて疑わなかった、高校2年の俺。
◇ ◇ ◇
「んー……」
薄いまぶた越しに届く、柔らかな光。カーテンの隙間から忍び込んだらしいその日差しが、俺を夢から連れ出した。
俺の中の時を止めたあの日。もう何度見たかわからない、嘘みたいな現実。呪いみたいに定期的に出てくる、でも、心菜に会える唯一の時間だ。
「ふぁ……」
寝ぼけた頭でうろうろと視線を彷徨わせる。
二度寝してしまおうか。それとも起きるべきか。
スマホの画面を見ると時刻はまだ5時で、布団の外で漂っている冷たさに納得。布団を頭まで引き上げたところで、視界に別の光が映った。通知の印である、スマホのランプの点滅。
昨日はバイトで疲れ果て、早々に寝たから夕方以降は見てない。早く見ろと言わんばかりに間を空けずに光ってる。
……一応確認してから寝るか。
通知をタップしてメッセージアプリを開くと、学校でよくつるむ男女のトークが動いていて。
『お父さんから水族館のタダチケットを6枚もらってたんだけど、期限が明日までだった!』
『お前そういうところあるよな~』
『うっさい。それでみんなの予定はどう~?』
『もち、空いてる』
『私も行けるよ』
『あたしも~』
『俺も行ける』
『あとは陸斗だけだけど、どうせ来るよね』
『そうそう。っつか、別の予定があっても来させる。時間決めとこーぜ』
『じゃあ明日の11時に現地で!』
と、俺がいない内に予定が立てられてた。俺の意思がガン無視なのはなんでだ。
その後に続くスタンプの嵐を見つつ、釈然としない気持ちを流すように一番下までスクロールする。最後に送られていたURLを押してみると、水族館の公式サイトが表示されて。
「ここは……」
……心菜と初デートで行ったところ。
右手首につけたままのミサンガが、動揺するみたいに大きく震えた。
◇ ◇ ◇
翌日、天気は快晴。俺の気分もほどほどに好調。集まったやつらも機嫌がいいらしく、
「陸斗がしっかり来てんの、ウケたわ~」
「一番来るの早かったし!」
「なんだかんだ、付き合いがいいよね~」
「……うるせぇ。静かにしろ」
にこにことダル絡みがうざったい。拒むほどじゃねーけど。
さっそく、黒と青が入り混じった世界へぞろぞろと入った。初っ端から広々としていて、大小様々の水槽が並んでる。さすが自由人ばかりの集団。途端に各々の見たいところへ散らばった。大して生き物に興味のない俺は、一直線にメインの水槽へ向かう。
ここへ来たのは、俺の付き合いがいいとかそんなのじゃなくて。
「久しぶり」
あの日以来、会えないまま遠くへ行ってしまった心菜。記憶の中だけでも、俺に無邪気な笑顔を向ける心菜に会いたかったから。
「綺麗だな……」
薄暗い館内の中で輝く、水の中に住む生き物たち。鱗をキラキラさせながら、あるいは闇に潜みつつも存在感を放ちながら、観客の視線を惹きつけてやまない。
『迫力満点だぁ……』
『見て見て~。ほら、この泳ぎ方似てる?』
『ほら、次! 早く行こう! 置いていっちゃうよ~!』
分厚いガラスの向こうにいる魚たちを、輝く瞳で追っていた心菜。
優雅に泳ぐ生き物たちの真似をして、めいっぱいにはしゃいでいた心菜。
気が急いて、俺が落ち着いて見る間もなく先へ進んだ心菜。
ここではっきりと覚えていることなんて、心菜の姿だけ。
心菜に視線を奪われていたせいで、水族館がこんなにも幻想的なことを今日初めて知った。生き物たちは美しいけど、それだけだってことも。
「陸斗? なに暗い顔してんの?」
「照明のせいじゃね? ……って、どさくさに紛れて腕組むな」
「えー、いいじゃん。前は気にしてなかったくせに」
文句を無視し、まとわりついていた熱から腕を引き抜く。不服そうな顔をされたけど、俺は知らないふりをして水槽に目をやった。
もっと前……いや、初めに気づくべきだった。
女友達にべたべたされてもそのままで、友達と心菜の予定では友達を優先する。メッセージだって、なかなか返信しないから下へ埋もれるのは珍しくなかった。当たり前に隣にいてくれる心菜に甘えて、いつだって一番後回しになってた。
どれだけ嫌な思いをさせただろう。どれだけ我慢をさせただろう。……どれだけ、傷つけてしまっただろう?
心菜はずっと隣にいてくれるって?傷ついてまで、俺と一緒にいてくれるはずだって?
そんなこと、あるわけないのに。心菜がいくら優しくても、自分が不幸になるとわかりきってる道を選ぶなんて有り得ない。今思い返せば簡単にわかることが、どうしてあのときはわからなかったのか。
……いや、わかろうとしてなかったんだ。
『全然気にしないで! 私は大丈夫だから』
そう言って、へらりと笑っていた心菜。
笑ってるから大丈夫、だなんて。
心菜の表面しか見ていなかった自分が。幸せな日常を当たり前だと決めつけていた自分が。
―――大っ嫌いで、心底憎らしい。
◇ ◇ ◇
俺の前でだけ、大きな花が咲いたように笑う。
そんな心菜がずっと好きだった。もう一生、見られないと思っていた。だから。
「……ここ、な?」
「陸斗くん……」
またここで、はしゃぐ心菜を見られるなんて思いもしなかった。
大切な記憶を夢中になって辿っていたら、いつの間にか一人になってて……まぁいいかとイルカショーを眺めていた。そしたら、近くから聞き覚えのある声が聞こえてきたんだ。
引き寄せられる意識のままに目を向けると、俺が切実に求めていた心菜が映ったから。“県外に進学したはず、別人かもしれない”って考えは完全に抜け落ちて、名前が零れた。次に思ったのが“心菜の隣にいるのが女友達でよかった”なんて、アホらしい。
「久しぶり……ってのも変かな? メッセージでのやり取りは頻繁にしてるし」
「そうかもしれねーけど、別に変でもないだろ」
「あはは、そっか~」
へらり。貼り付けた笑みが、あの日のものと重なる。他人行儀で、自分の感情を隠そうとするそれ。瞬間的にイラっと燃え上がったけど、心菜にそうさせたのは俺。拳を固く握り締めてなんとか落ち着かせる。
その間に、心菜が『ごめん、先に行ってて』と友達にお願いをしたことで、思いがけず心菜と二人きりになれた。
心菜が俺と話をしてくれる。
それだけで嬉しくて、自分じゃ制御しきれなかったイライラはすぐに鎮まった。
ベンチを求めて広場に出てみると、西の空がどんよりと重たい灰色に覆われているせいで人はあんまりいない。ほぼ貸し切り状態でなんとなく得した気分。近くの自動販売機で心菜が好きだった炭酸飲料を2本買い、1本を心菜に渡すと心菜はお礼を言いながら驚いた顔をした。
「これが好きって知ってたんだ……」
独り言みたいな小さな呟き。『そんくらい知ってるし覚えてるっつーの』って言おうとして慌てて口を噤む。……こんなことで驚かせてしまうほどに、なにも伝えてなかったのは俺だから。
自分に呆れてなにも言えなくなり、沈黙が広がる。それがやがて、気まずさへと変わってしまった。
なにか当たり障りのない話を……。
「えーっと、大学は休み? それでこっちに戻ってきてんの?」
「そうそう。まさか、陸斗くんと会えるなんて思ってなかったなぁ。私はさっきいた子たちに誘われたんだけど、陸斗くんは?」
「俺も友達に誘われて来た」
「あれ、もしかしてはぐれたの?」
「あー……。はぐれたっつーか、心菜を追ってたらいつの間にか一人になってた」
「え……」
俺が本心を零すや否や。心なしか、心菜が半身を引いたような気がする。声も表情も硬くて……ってこれ、もしかして誤解を生んでんのか?
「あっ、ストーカーじゃねぇからな!? 心菜の幻影っていうか、記憶を頼りにそこを通ってただけだから! ここで会ったのはまじで偶然なの! 信じて!」
「ぷっ……ははっ!」
「な、なんで笑ってるんだよ!」
「だ、だって……くくっ、そこまで全力で弁解しなくてもいいでしょ? しかも幻影って……ふふっ」
おっきな目を細くして、半月のような緩やかな弧を描く。口をおっきく開けて、綺麗に並んだ真っ白な歯を見せる。いつぶりかもわからない、俺の大好きな笑顔が目の前で満開に咲いていて。
「……ちょ、っと、陸斗くんっ!」
こんなの、抱き締められずにはいられなかった。
大好きな心菜が手の届く先で笑ってる。俺の言葉に笑って、それを俺に向けてくれている。
どうしても触れたくて。腕の中に閉じ込めて、永遠にしたくて。
衝動的に身体が動いてしまったんだ。
「心菜先輩。好きなんだ、ずっと。今も」
“始まり”へ戻ったみたいな感覚に、つい呼び方も昔にタイムスリップした。
拒否されるのが怖くて、声と身体が情けなく震えている。でも、言えずに俺の中に閉じ込められていた想いは、一度出たら止められない。
「もう絶対に泣かせねーから。今度こそ、幸せにしてみせるから」
だから、どうかお願い。俺の隣に戻ってきて。
そう伝えようとしたとき。
「―――うん。次はそうしてあげてね」
荒れ狂う濁流の中でのピクリとも動かない石。
それを想像させるような静かさを纏った声が、俺の心を砕いた。
心菜の手には弱々しい力しか込められていないのに、押し返された俺の身体はあっさりと心菜から離れてしまう。
心菜の言葉にショックを受けているからか。
この期に及んで、俺は心菜に許してもらえるって思ってた?だからこそ、心菜の返事が余計に苦しいのか……?
混乱が落ち着くのを待ってくれない心菜は、短く息を吸ってそれから口を開いた。
「次に陸斗くんが好きになった人には―――」
「やめろ! 聞きたくねーよ!!」
心菜が望む未来。俺が望まない未来。
それらが同じものだってことを認めたくなくて、受け入れたくなくて。咄嗟に両手で耳を塞いだ。目も耳も、強く固く閉ざした。
心菜の次なんていらない。知りたくない。考えたくもない。
まだ好きなんだって、言っただろ。お願いだから、酷いことを言うなよ。はっきりされたら、今度こそ終わってしまう……。
振り切った感情のせいで、生温い雫が俺の頬を伝う。それを隠すようにぽつり、ぽつりと。冷たい雨が気まぐれに同情する。
「ごめんね」
一滴、固く閉ざした心に沁み込んだ。
俺の手に重ねられた手を振り払うことができなくて、手と耳の隙間から入り込んだ拒絶を受け入れるしかなかった。ゆっくりと下ろされた手にはもう、力が入らない。だけど、心菜は左手の小指を俺のそれに絡めて、力を込めた。
「友達を大事にする陸斗くんは素敵だけど、彼女の相手もしてあげないとね」
蓋を失くした耳は強くなってきた雑音をBGMに、全ての音を拾う。俺にとって都合の悪い、聞きたくない言葉も。
「彼女の気持ちとか行動とか。一つ一つに目を向けて、ちゃんと向き合ってあげて」
それはきっと、心菜がしてもらいたかったことで。
「私みたいな人を、絶対に好きになっちゃダメだよ」
これはきっと、俺にはできないこと。
「私のわがまま、聞いてくれる?」
涙の向こう側にいる心菜を、俺は光のない目で見つめるだけ。心菜はわかりやすく困ったような表情で……でも、揺らぎのない瞳をしている。
長いこと本心を隠していた心菜が口にした、切実な願い。最初で最後の、わがままとも呼べないような望み。それがわかるのに、俺はそれをききたくない。どうしたって頷けない。
真っ直ぐな瞳に罪悪感が湧いて、逃げるように視線を逸らす。それから項垂れて……唯一触れてる小指に、縋るみたいに力が入った。すると、
「ありがとう」
俺の往生際の悪い逃げを勘違いした心菜が、安心したようにお礼を紡いだ。
今のは指切りじゃねぇ……心菜以外のやつを好きになれるわけねーだろ。
そう、言わなきゃいけないのに。
「じゃあ、ばいばい」
あまりにも背景に不釣り合いの、晴れやかな笑顔を向けられたから。最後に俺の頭を撫でた手が、懐かしい優しさを纏っていたから。
不幸なはずが幸せで満ちて、ずぶ濡れな心菜の後ろ姿にまで見惚れていた。
「約束、か……」
しばらくして寒さで我に返ったとき、思い返したのは小指に残る微かな熱。この熱を手放せたらきっと楽になれる。わかってても、大事に胸に抱いてしまう。
最後のわがまま以外は、何年かかっても果たしてみせるから。
だから、そのときはもう一度。俺の隣で笑って。
< 1 / 2 >