ビター・マリッジ


「悪いが、そこまでだ。これは俺の妻だから、返してもらえるかな」

聞き覚えのある低い声がして、私の身体が小山くんから引き離された。


「ゆ、きと、さん?」

ぽかんと見上げた私の前に幸人さんの背中が立ちはだかっていて、彼の向こうに見える小山くんも驚いたように目を見開いている。


「君と妻の関係は知らないが、何か勘違いをさせたなら申し訳なかった。今夜は俺が連れて帰るから、君もここでお引き取り願えるかな」

抑揚のない声で冷静に話す幸人さんに、小山くんが若干怯えた様子で頷いている。


「あの、幸人さん。小山くんは私の同期で。私の我儘でご飯に付き合ってくれて、私のことをタクシー乗り場に送ってくれただけで……」

「言い訳はあとで聞く」

肩越しに振り向いた幸人さんが、私の言葉をぴしゃりと切り捨てる。冷たく見つめる黒の瞳が、私を責めているようで怖かった。


「小山くん、ごめん……」

「大丈夫。よかったね、旦那さん来てくれて」

幸人さんの横から顔を出して謝ると、小山くんが頬を引き攣らせながらも笑いかけてくれる。


「お疲れ様。また明日」

「うん、お疲れ様」

オフィスでの別れ際のようにそう言ってくれた小山くんは、一時の感情に流されて私に優しい言葉をくれただけだったのかもしれない。

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