秋恋 〜愛し君へ〜
内容は全く覚えていないが、一通り説明を受け、店内(ホール)に出た。裏とは全く違って穏やかな雰囲気だ。平日の午後4時だと言うのに満席だった。

「あっ!」

勇次が俺の背中を叩いた。

「何だよ!」

俺は振り返り勇次の顔を見た。勇次は俺を通り越しずっと先を見ていた。

「秋、アレ、アレ見てみいや」

勇次が顎で示した方に目をやってみた。そこには、俺に背を向けて接客している黒服の女性がいた。女性がこっちを向いたその瞬間、俺は愕然とした。彼女だ! 艶やかなロングの黒髪を一つに結えアップにし、颯爽と仕事をしている。確かに彼女だ。俺の目の前に、キャプテンスーツを着こなした黒服姿の彼女がいる。やっと見つけたのに、よりにもよってフォレストで、しかも黒服。嬉しさ以上にショックの方が大きかった。
俺は沈んだ気持ちのまま、それでも彼女を観察し続けた。
入ってきたばかりの客を絶妙のタイミングで椅子を引き着席させる。子供と話をするときは、膝をつき目線を合わせる。顔をしかめた男性外国人客に話しかけられると、近くにある内線電話へと一緒に向かった。しばらくして、彼女はそっと受話器を置くと、不安そうにしていた男性外国人に話しかける。すると、彼は彼女の両手を勢いよく握り締め、何か言っている。表情は笑顔だった。そんな彼を笑顔でホールの外まで送って行った。戻ってくるやいなや、おばちゃんグループ客に呼び止められる。それにも目線を合わせ笑顔で接客している。その場を離れるとウェイターにそっと近づき何かを行った。ウエイターの動きを目で追うと、お冷の入ったポットを手に取り、少し離れた男性3人のいるテーブルへと向かった。そこのグラスには3分の1程度のお冷しか入っていなかったのだ。すぐに彼女に視線を戻すと、別のテーブルでコーヒーをカップに注いでいた。
その時、案内人の先輩が再び説明を始めた。視線は俺が今まで見ていた方向と同じだ。

「あそこで接客している黒服だが、彼女は先日、海外研修を終え帰国し、キャプテンに昇格した。高卒入社5年目の昇格はかなりのスピード出世だ。彼女の動きには全く無駄がない。何よりも凄いのは、一度自分が受け持ったお客様をしっかりと覚えている。そのお客様が左利きであれば、次の来店時にはシルバー(スプーン、フォーク類)を左利き用にセッティングするし、苦手なものを告げられればそれを確実に記憶している。彼女がホールにいるときは必ずと言って良いほど満席だ。満席でいくら多忙でも常に各テーブルにアンテナを張り巡らせている。ここはホテルだ。サービス料もきちんともらっている。満足を買ってもらっているんだ。同じお客様が何度も足を運んでいるくれるということは、それだけ評価してくれているという事。お客様はちゃんと見ている。君たちが背負っているのは一流ホテルと言うブランドだ。お客様一人々に神経を注がなければ、顧客を得ることはできない。ホテルマンとは接客のプロと言っても過言ではない。生半可な気持ちじゃすぐに潰されてしまう。そんな厳しい世界なんだ。しかし、それだけ面白い世界でもある」

確かに彼女は俺が観察している間、それぞれの客に集中して丁寧に接していた。しかしその間も各テーブルをちゃんと見ていたのだ。まるで人には見えないたくさんの目を持っているかのように。
目の前にいる彼女はペーペーの俺が言うのもなんだが、まさしくプロだった。本音を言えば、今までの俺はウエイターという職業を軽視していた。注文を取り、それを運び、器を下げる。それだけを繰り返しているだけで、誰にでもできる仕事だと思っていたからだ。でもそうじゃない。ましてやここは一流と言われるホテルだ。俺は次第にこの仕事の魅力に惹かれていった。そして、彼女と同じポジションで仕事がしたい!そう思い始めていた。
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