秋恋 〜愛し君へ〜

愛し人

空にはいわし雲が広がっている。俺の季節だ。その年の秋、とうとうチャンスがやってきた。
その日は俺も彼女も16時上がりの早番だった。ちょっとした雑用もあって、先に出勤していた俺は、事務所で一服していた。そこへ彼女が出勤してきた。

「おはよう」

そう言った彼女の異変を俺は見逃さなかった。少し鼻声気味だったのだ。 

「おはようございます。大丈夫ですか?」

「えっ、私?大丈夫よ」

微笑んだ彼女の頬は赤みを帯びていた。

やっぱり彼女はプロだった。俺の心配をよそにいつも通り仕事をこなしていた。この日は客の流れがなかなかきれず、16時になっても上がれなかった。ようやく上がれたのは18時だ。

「お疲れさま」

彼女はそう微笑んで何事もなかったように事務所を後にした。そんな彼女が心配で俺は急いでロッカールームへ向かうと、いつも浴びているシャワーも浴びずに速攻で着替え、従業員用出入り口近くにあるビルの柱に身を潜め気づかれないように待ち伏せした。もしかしてもう帰ってしまったのだろうかと思い始めた時、彼女がやってきた。その時の表情は眉間にシワが寄り、かなり辛そうだった。警備員に向かって一礼し、ホテルを出ると駅に向かって歩き出した。まるで変質者だなぁなんて思いながらも、俺は彼女の後をつけた。
人混み溢れた地下道を、少し歩いては止まり、また歩いては止まり、ゆっくりと進んでいく。ようやく駅までたどり着くと改札を抜け、プラットホームに向かう。電車を待つ人たちから離れ、プラットホーム近くの横の柱によりかかった。俺はいてもたってもいられず彼女の元へ駆け寄った。

「樹さん!」

「あら、長谷川くん、お疲れさま」

彼女はまたもや微笑み、平静を装ように体制を立て直そうとした。俺はすぐさま彼女の両腕をつかんだ。

「無理しなくていいですよ。体調悪いんでしょ」

彼女はゆっくりうなずくと、そのまま俺の胸に倒れ込んできた。彼女を抱きかかえた俺は一瞬心臓が止まってしまうくらいの緊張に襲われた。ずっと見ていることしかできなかった彼女が、今、自分の腕の中にいる。でも、彼女の尋常でない体温が俺をすぐさま冷静にさせた。焼けつくような熱さだった。こんな状態になるまでよくやったもんだと心底感心した。
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