秋恋 〜愛し君へ〜
これが失恋ってやつかぁ…初体験だなぁこの年で。なんて、思わず笑ってしまった。そんな時、目を刺すような眩しい光が俺を照らした。反射的に目をそらした俺の横を急行が勢いよくけたたましい音をたて通り過ぎていった。

「……ク」

背後から声がする。
人が走ってくる音もする。
あぁ、誰か電車に乗り遅れたか…なんて思っていた。

「ガワクン」

気のせいか?今呼ばれたような…
俺は振り返った。気のせいなんかじゃなかった。目の前には息を切らし大きく肩を上下する彼女が立っていた。

「よかった」

「えっ?」

「よかった間に合って」

「樹さん?」

「私」

「んっ?」

彼女はおもむろに俺の両手を握った。そして、俯いたまま

「私、この手、握ってていいのかな」

「え?」

「あなたに甘えていいのかなぁ」俺の顔を見上げた。

俺が一番欲しかった言葉。確かに今、受け取った。

「いいよ」

俺はそう言って笑いかけた。
彼女の不安そうだった表情にも笑顔が戻った。戻ったと思ったら、今度はみるみるうちに瞳を涙が占領し、瞬きと同時に溢れ出した。

「俺がいじめてるみたいだ」

そんな俺の言葉に、また涙を流したまま笑顔を見せた。俺はそっと彼女の耳元で

「今福笑いみたいな顔してますよ」そう茶化すと、彼女は俺の胸を両手で軽く押し俯いた。

「ウソだよ」

「もーっ!」

彼女は涙を拭いながら、頬を膨らませ口を尖らせた。その表情があまりにも可愛くて、すぐに抱きしめてキスしたい!そう思った。でも、公衆の面前でそんなことできるはずがない。俺の羞恥心が邪魔をした。

「あっ!」

「何?」

「コーヒー、俺コーヒー飲んでない!」

「えっ?そ、そうね。帰ってお茶でもしますか」

彼女は微笑んだ。

帰り着いた部屋の中は、淹れっぱなしのコーヒーの香りが立ち込めていて、それはまるで媚薬のようだった。

「コーヒー煮詰まっちゃった。すぐ淹れなおすから待ってて」

キッチンに立つ彼女の後ろ姿が俺のそれまで我慢していた気持ちに火をつけた。そのまま彼女の背後からそっと腕を回した。彼女は体を入れ替え俺を見つめた。

「私、ちゃんと別れるから」

「んっ」

俺は軽く頷き、彼女の額にキスをした。思わず噛みつきたくなくなるような美味しそうな頬に、小さいけれど筋の通った格好の良い鼻に、ゆっくりと、そして唇を合わせた。
額も頬も肌も唇も夜風に当たったせいかちょっと冷たかった。でもその冷たさは、彼女の鼓動の速さと体温の上昇とともに次第に温かくなった。ほんのり赤くなった顔で俺を見上げ「ありがとう」微かに口元を緩めた。
俺は彼女に笑いかけ、もう一度抱きしめた。
欲を言えば、彼女をそのまま押し倒し、彼女の全てを自分のものにしたかった。けれど我慢した。我慢しなけらばいけないと思った。
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