秋恋 〜愛し君へ〜
「行っちゃったねぇ」

「うん、何か食う?奢るよ」

「いいの?」

「もちろん」

「じゃあ、牛丼」

「了解」

俺たちは近くの牛丼屋に向かって歩き出した。

「楽しかったね」

「そうだな」

「2Hって呼ばれてたんだねぇ」

「なんじゃそりゃ!って感じだよな」

「やっぱりファンの子多いのよ」

「俺たちの?」

「そう、秋ちゃんも日高くんも」

「そうは思わねぇけど」

「私、半殺しにされちゃうかも」

「え、なんで?」

「舞ちゃんが言ってたじゃない」

「あーっ、何、俺たちの関係がバレたらってこと?」

「うん」

「それだったら俺も同じだ。半殺し」

「どうして秋ちゃんが?」

「わかってねぇなぁ、樹は」

「何を?」

「樹って天然?」

「天然?」

「まぁいいや。樹はさぁ、自分のことわかってないよな。野添も言ってただろ。樹は有名だって。マジ、イイ女なんだよ。だからあの笠原さんも樹のこと」

何言ってんだ俺は、自滅してどうする。

「私、ちゃんと別れたよ。鍵も返してもらったから」

「そっか」

そう言ったところで店に着いた。店内はちょうど2席空いていた。

「ほい」

俺は座るように促した。

「秋ちゃん、私こっちに座るよ」

「いいんだ。俺がこっちに座るから」

「でも…」

「さっ、座ろう」

そして俺たちは席に着いた。なぜ樹が俺のいる方の席に座ると言ったのか。それは、俺が左利きだからだ。空いていた席はカウンターの真ん中あたり、その席の両側に座っている人たちは2人とも右利きだ。ただでさえ狭い店内、俺が左の席に座ったならば隣の人と腕がぶつかってしまう。だから樹は、隣の客に迷惑にならないよう俺を右側に座らせようとしたのだ。普通だったら俺もそうする。でもこの時はどうしても左の席を譲れなかった。なぜならば、今、俺の隣に座っているのは笠原さん似の男だったからだ。樹を隣にさせたくなかった。とてもくだらない理由なのだが、その時の俺にとっては重要なことだった。笠原という全てに対して俺はとても敏感になっていた。彼に関するほんの小さな事でも樹から排除したかった。別れたとは言っていたが、長い間支えられてきた男のことをそんなにすぐ消し去ることなんてできないだろう。まかり間違って元のさやにでも収まってしまったら大事だ。俺は立ち直れない。だから、どんなに些細な事でも見逃すわけにはいかなかった。それほど笠原真也という存在は、俺にとってそう簡単には乗り越えられない巨大な壁のようなものだったのだ。
そんな笠原さんが持っていたアパートの合鍵。返してもらったと言っていた。樹のテリトリーに入ることを許された者、樹が身を委ねた者だけが持つことのできる、いわば証のようなもの。そんな大事な合鍵をどうして俺にくれないんだ。渡してくれてもいいはずなのに。俺は不安だった。そして妬いた。
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