秋恋 〜愛し君へ〜
喪失感を抱きながら俺はフォレストへ戻った。ホールに出ると、樹は普段と変わりなく仕事をしていた。ここにいれば笠原さんを追うことはできない。俺はなんとちっぽけな男なんだ。

予約が多かったこともあり、仕事は余計なことを考える暇をなくしてくれた。でも、マンションに帰り着くまでの間は、仕事中お預けにされていた時間が利息付きで戻ってきたような長く重いものだった。
樹は電車の扉横の手すりに掴まって、ずーっと外を眺めていた。時々瞬きはするものの、視線は変わらない。勢いよく過ぎ去る見慣れた夜の街並みは、きっと樹の目には入っていない。俺は口を開くこともできなかった。樹はすぐ傍にいるのに、心だけは俺がどんなに大声で叫んでも届かない、遠い場所へ行ってしまっているかのようだった。

樹が言葉らしい言葉を発したのはマンションに帰り着いてからだった。俺が玄関の扉を開け、樹を先に部屋に入れた。俺が扉の鍵を閉めた時

「秋ちゃん、ありがとう。私を残してくれて、傍にいてくれて」

やっと帰ってきてくれた。俺の元へ。俺は包み込むように抱きしめた。
真っ暗な部屋に目が馴れてきた頃、俺は心を決めた。

「樹、笠原さん辞めるんだ」

こんなこと、俺が言わなくてもいずれはわかること。でもちゃんと俺の口から言っておきたかった。

「俺、笠原さんと話したんだ」

俺は、彼との会話を包み隠さずに話した。自信が欲しかった。彼がこれからどうするのか、樹が全て知った上で、それでも笠原さんではなく、俺と一緒にいることを彼女自身が選んだのだという既成事実を作りたかったのだ。俺にとって大きな賭けだった。
樹は何も言わなかった。ただ俺の胸に顔を埋めてかすかに震えていた。それは長い時間だった。俺の顔を見上げた樹の瞼は腫れていた。薄手のジャケットの下に着た俺の黒いTシャツはびっしょり濡れていた。

「秋ちゃん、私の手を離さないでね。しっかり握っててね」

弱々しい声だった。

「絶対離さない!樹、樹の手を握っているのは他の誰でもない俺だから。今も、これから先もずっと」

笠原さんは辞表を提出してから半月後に退職となった。でも、実際あの日から一日だけしか出勤していない。残りは有給処理をしたのだ。
彼が抜けたフォーレストは、大黒柱を失ったようで半端なくきつかった。彼の存在は本当に大きかったのだ。でもここには樹がいる。かわりに樹の存在は益々大きくなっていった。他にキャプテンは数名いるが、誰もが樹に頼った。樹への負担は相当なものだったと思う。残業は増え休みも削られた。2人で過ごす時間はもちろん減った。それでも樹は、俺と一緒にいる時、決して辛い顔をしなかった。それどころか、軽やかな鼻歌を歌いながら飯を作ってくれた。俺が大嫌いな魚も食べられるように団子にし、ミートボールならぬフィッシュボールにしてくれたりと手が込んでいた。
俺が「飯なんかどこかに食いに行けばいい」と言うと「私の楽しみを奪わないで。秋ちゃんのために作ってあげられるって事は、私にとって凄く幸せなことなのよ。それに二人だけで過ごしたいもの」頬をほんのり赤らめた。
こんな樹を抱きしめる以外何ができようか。
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