秋恋 〜愛し君へ〜
階段を降り、地下1階にある人事部に顔を出し、真新しい社員証と名札を受け取った。そのまま1階にある大ホールに行けとの指示に従って急いで向かった。集合時間まで残り3分しかなく少し焦っていた。恐る恐る扉を開けると用意された椅子は後ろの2席を除きびっしりと埋まっていた。ざわつきに紛れるように、背中を屈めながら後ろの空いた席に座る。勇次と2人顔を見合わせて苦笑いした。そして俺たちを待っていたかのように入社式は始まった。

「新入社員の諸君、おめでとう。2週間前の君たちとは比べものにならないほど立派な顔つきだ」

そう、俺たちは今日初めて出社したわけではない。2週間前から過密スケジュールで研修を受けてきた。「あなたたちは役者なんです」もその時聞かされた。人里離れた山奥、杉林に囲まれた研修所に缶詰にされたのだ。総勢60人が男女別五十音順の6人グループに分かれ研修を受けた。ちなみに、俺は「長谷川」勇次は「日高」なので、見事に同じグループだ。朝は体力作りから始まり、言葉遣い、電話応対、挨拶の仕方、これに至ってはお辞儀の角度で意味が違ってくるとのことで、何回も何回も厳しく仕込まれた。他に、お偉いさん達の説教、英会話、客とスタッフに分かれての実務実践と、毎日毎日繰り返され、しまいには会社の組織図(会長から50人程度の重役の顔と名前)まで覚えさせられた。
夕食前には必ずグループごとに復習を兼ねたテストが行われ、その中に1人でも不合格者がいようものなら全体責任ということで、グループ全員で補修を受けさせられた。俺も勇次も相当物覚えが悪いがそれ以上の奴がいた。そいつのせいで俺たちはほぼ毎日補修を受けさせられた。これにはほとほと参った。休日はと言えば、何をする気力もなくただひたすら爆睡した。あの勇次も口数が減り、顔を合わせれば溜息ばかりついていた。
そんな研修も終盤、たまたま通りがかった男子トイレから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「わざとじゃない!」

この声はあいつだ!俺よりも物覚えが悪い奴、野添。そして別の奴の声。こいつも同じグループで、相手によって態度を変える、いけ好かない奴、名紫野。

「野添くんよぉ、ハッキリ言って迷惑なんだわ。
なんでクソ簡単なことも覚えらんねぇのかなぁ。あぁマジうざ。わざとやってるとしか思えねぇんだけど」

「…」

「君さぁ、生きてて辛くねぇ?」

「…」

「マジやってらんねぇわ。
あぁ、そういえば長谷川が言ってたわ。
野添って生きてる意味ねぇって」

は?今俺の名前を言ったよな?長谷川って俺しかいないよな?
気がついた時には名紫野の胸ぐらを掴んでいた。
今まで本能で生きてきたので仕方ない。

「俺がなんて言ったって?」

「長谷川…」

「俺がなんて?」

「暴力か」

「は?」

「参ったなぁ、これだから単細胞は」

「はぁ?」

掴んだ手に力が入る。

「あぁ〜確信ついちゃった?」

名紫野がニヤッとした時、野添が俺の腕を引っ張り、名紫野の胸ぐらからひき離した。すると名紫野は「チッ!」と舌打ちしながらトイレから出て行った。

「長谷川くん、暴力はダメだよ」

野添の目が俺をしっかり捉えている。

「殴ってねーし。ちょっと掴んだだけだろうよ」

「あれはちょっとじゃないでしょ!暴力はダメだから」

「だから暴力じゃねぇだろ」

「あれを暴力って言わなくてなんて言うの?」

「ん?コミュニケーション」

「コミュニケーション?そんなコミュニケーションってないでしょ」

野添はぷっと吹き出した。かと思えばすぐに真顔になった。

「ごめんね」

「何でお前が謝るんだよ」

「僕のせいでいつもみんなの時間がなくなるから」

「あぁ…」

「僕、覚えられないんだ。わざとじゃないんだよ。覚えるのに時間がかかるんだ。いつもそうなんだ。僕は何でこうなんだろう…僕はダメな人間なんだ」


「誰がダメやてぇ?」

俺の背後から声がしたので振り返ると、トイレの壁に肩肘をついた勇次が立っていた。

「そらぁ、記憶するのは苦手そうやけど、なんでそれでダメ人間になるんや?てか、それでダメ人間やったら、俺らダメダメダメダメ人間やん。野添、補導されたことないやろ」

「補導⁉︎」

「せやぁ、補導。なぁ、秋ちゃん」

「何で俺に振る」

「野添よぉ、ハッキリ言うて、時間が無うなるのはしんどいっちゃあしんどいんやけどもなぁ、この研修が女子と別々っちゅうのがいっちゃんしんどいねーーーん!!!!!! てか、俺ら便所で何しとん?」

勇次はパンッ!と手を叩くと「ほな行こかぁ」と俺と野添の首に手を回した。

「野添、一人で頑張らんでええ、研修終わるまで秋が付き合うさかい」

「はぁ⁉︎」

「何がはぁ⁉︎やねん!お前、野添おらんかったらクビやったでクビ。暴力沙汰で入社前にクビ。入社前やからクビて言わんのか?まっどっちでもええけど、シャレにならんでホンマに。野添はお前の恩人や!恩人には恩返しっちゅうもんをせなあかんやろ」

勇次はケラケラ笑っていた。

それから俺と勇次は野添の記憶力レッスンを開始した。そしてなんとか無事に研修を終えたのだ。
これまで好き勝手生きてきた俺にとって、大量のスギ花粉と戦いながらのこの研修は、それはそれはおかげさまで入った事は無いけれど、牢獄のようだった。実際夜中に逃げ出した奴もいるほどだ。
研修を終え、今こうしてこの場にいることが、俺にとっては大したことなのだ。
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