秋恋 〜愛し君へ〜
俺はレストラン部事務所にやってきた。
引き開けたドアの右壁側にある棚には、たくさんの本や資料が並んでいる。俺はその中から一枚の資料を手に取った。

『海外研修について』

海外研修は笠原さんも樹も受けてきた。黒服になる最短コースだ。世界各地にあるグループホテルに派遣され、一年間の実習を行う。現地支配人のOKが出れば、帰国後晴れて黒服となり名刺をもらう。俺はこの名刺が欲しかった。認められた者しか持つことができない物。でも、この研修に行くにはクリアしなければならないことがある。

1. 勤続3年以上の者
2. 英検準1級合格者
 または、TOEIC公開テストにてトータル
 800点以上を有する者
3. 支配人の推薦者

この三条件だ。

今の俺には、勤続3年以上しか当てはまらない。入社時に受けたTOEICは400点にも達していなかった記憶がある。とにかく語学力をなんとかしなければ!

俺は意を決して姉貴の部屋をノックした。

姉貴は短大卒業と同時に、バイトで貯めた金でロサンゼルスに語学留学した。帰国後難関と言われる現会社の採用試験を突破し就職した。入社後も、姉貴の辞書に妥協という文字が見当たらないほど、男勝りな性格で不動の地位を築いてきた。そんな姉貴だから俺はノックすることを躊躇していたのだ。

姉貴は半分だけドアを開けた。相変わらずのジャージ姿にノーメイク。風呂上がりだったのか、頭にタオルを巻きつけてビールを片手に持っていた。

「秋!何?あんたが私んとこ来るの珍しいじゃん」

「頼みがある」

「何?もしかしてあんた借金⁉︎」

「ちげーよ!」

「じゃあ何?」

「英語、英語教えてくんねーか」

姉貴は慌てて俺の額に手をやった。

「何すんだよ!」

「熱でもあるんじゃないかと思ってさ!」

「ねーよ」

俺の顔をまじまじと見つめ

「まぁ入ったら、適当に座んな」

ドアを大きく開けた。

俺はベッドに腰を下ろした。姉貴は机にビールを置くと回転式の椅子に後ろ向きに座り、背もたれの上に両腕を載せた。

「あのさぁ、あんたたち会社で何かあんの?試験とか」

「あんたたち?どういうことだよ」

「ついこの前も勇ちゃんがあんたと同じこと言いに来たよ」

「はーっ⁉︎勇次が?」

「一ヶ月しかないんやーっ!ってね」

なんと恐ろしや日高勇次!考えている事まで同じとは。

「海外研修だよ。募集締切が2月末日なんだ」

俺は三条件を姉貴に告げた。1月中旬にあるTOEICを受験すれば、2月中旬には結果が出る。受験までわずか一ヶ月、俺はやるしかなかった。

姉貴は立ち上がり、壁に貼ってあるカレンダーをめくった。

「海外研修って行かなきゃいけないの?」

「別に」

「じゃあなんで?勉強嫌いのくせに。ちゃんと理由を聞かなきゃ教えらんない。本気かどうかわかんないしね。気まぐれに付き合わされるのも面倒だしさ」

腕を組み俺を睨んだ。

「気まぐれなんかじゃねーよ!勇次は何も言わなかった?」

「出世の為やって言ってた」

「そうだよ、その通り」

「それじゃ納得いかないね」

「なんでだよ!」

「あんた、TOEICまであと一ヶ月しかないんだよ!しかも、800点以上なんて半端な気持ちじゃ絶対無理。教える私の身にもなってよね」

わかったよ。じゃぁもういいよ。そう言うだろう、昔の俺なら…

「ホテルの黒服知ってるだろ?」

姉貴は再度椅子に腰掛けながら頷いた。

「俺はその手前にいる」

「次はその黒服ってわけね」

「そう」

「黒服ってそんなに偉いの?」

「偉いっていうか、一応一人前って認められる。名刺ももらえるんだ」

「何がそんなにあんたを駆り立てるの」

真剣な眼差しで聞いてくる姉貴に対して、俺は不思議なくらい素直な気持ちを抱いていた。隠すことなんて何もない。

「俺、結婚したい女性がいる」

そう切り出した俺に、全く驚く様子もなく、ただじっと俺を見つめていた。

「彼女は、俺が入社した時からずっと手の届かないところにいる。今でもそうだ。俺が黒服にならない限り、いつまでも前を走り続ける。このままじゃ俺は彼女を守れない。だから…」

姉貴は大きくため息をついた後こう言った。

「わかった、やるよ。覚悟しな!英検は絶対絶対絶対絶対無理だろうけど、TOEICなら仕事柄外国人馴れしてると思うし、あんたの気合次第でどうにかなるよ。名刺もらったら私にもちょうだいね。それから、頑固親父にも見せてやな、あんたの根性」

俺はふと感じることがある。姉貴は実は兄貴じゃないのかと。
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