秋恋 〜愛し君へ〜
受話器を置いた俺は、樹に会いたくて仕事でいないはずのマンションに大急ぎで帰った。
玄関の扉を開け、漂ってくる優しい香りを感じるだけで心が安らいだ。
テレビでも観ていればすぐに樹は帰ってくる。それなのに俺は、マンションを出ると駅へ向かった。そしてそのまま電車に乗り新宿駅まで行った。
腕時計を見ると、樹が上がる時間まで数分あったのでホテルまで歩いた。結局迎えに来てしまったのだ。
俺は従業員用出入口近くの壁に寄りかかり樹を待った。真冬の風の冷たさで力が入り肩が凝りそうになる。
俺は基本的に『待つ』という行為が嫌いだ。人との待ち合わせで待たされる。これは苦痛以外の何物でもない。でも、今こうやって自ら望んで樹を待っている。残業で上がれないかもしれない。それでも全く苦にはならない。楽しいとさえ感じてしまう。人間という生き物は本当に勝手なものだ。

「秋ちゃん!」

樹は瞳をぱちくりさせていた。

「どうしたの⁉︎試験何かあったの⁉︎」

「何もないよ。ちゃんと受けた」

「そう、お疲れさまでした」

樹が微笑んだ。

「疲れたでしょう」

「うん、もうぐったり」

樹の表情が曇る。

「なーんて嘘。全然疲れてないよ。疲れてても樹の顔見たら速攻復活!」

「もーっ、秋ちゃんたらぁ」

樹は俺の手を取り

「こんなに冷たくなって、ずっと待っててくれたの?」

慈悲深い表情マリアのようだ。

「さっき来たとこだよ。んじゃ帰るか」

「うん」

「今日はさぁ、地下道じゃなくて上から帰ろう。たまには都会の空を見ながら帰るっていうのもイイかなぁなんて」

「そうだね!」

俺たちは階段を上り地上へと向かった。
冷たい空気の中に放つビルや車のライトが競い合うように輝いていて、空には星が散らばっている。なかなか綺麗なもんだ。都会の夜も捨てたもんじゃない。
樹はいつも俺の半歩後ろを歩く。決して前を歩こうとしない。横に並ぼうともしない。俺が後に手を伸ばせばすぐ届く距離にいる。俺は意地悪をしてみた。突然立ち止まったのだ。樹は俺の背中にぶつかった。

「痛っ!どうしたの?」

「樹が後ろを歩くからだよ」

「だって、落ち着くんだもん。秋ちゃんの背中が前にあると」

「樹…」

「さっ、帰ろ、秋ちゃん」

俺たちは歩き出した。いつもと同じように。
俺の背中も捨てたもんじゃないな。
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