秋恋 〜愛し君へ〜
俺は東京へ戻った。置き忘れたままのスーツケースと有給を取りにホテルへ行き、実家に帰り着いた時には14時を過ぎていた。

「あら、お帰りなさい」

玄関先を掃いていたお袋が言った。

「親父は?」

「テレビ観てるわよ、ゴルフ」

「お袋も来てくんねーか」

「何?そういえば話があるって言ってたわね。ちょ、ちょっと待って秋!」

お袋は急ぐ俺の後を慌ててついてきた。

親父は姉貴と一緒にリビングのソファーに腰掛けテレビを見ていた。

「あ、お帰り」

半年振りだというのになんだ、この普通のトーンは!まっ、姉貴らしいといえば姉貴らしい。

「親父、話がある」

「ん?」

俺は床に正座した。

「俺、結婚したい人がいる」

「え?今なんて言ったの?」

お袋が訊き返してきた。

「だから結婚したい人がいるんだって」

「久しぶりに帰ってきたと思ったらいきなり結婚だなんて、お母さん驚いちゃうよわよ!外人さんなの?」

「違うよ!なんで外人なんだよ」

「だって……」

「お前、結婚の意味わかってるよな。一家の大黒柱になるんだぞ。軽々しく口にするな」

予想通りだ、親父の言葉。

「軽々しく口になんかしてねーよ」

ただならぬ雰囲気を察したのか、弟の春が2階から駆け降りてきた。

「どうしたの?兄ちゃんまた何かやらかした?」

「何もしてねーよ」

俺は名刺を取り出し、親父の前にあるテーブルに置いた。

「秋、これ、あんたまさか、なったの黒服?」

「なったよ」

「やったじゃん!」

「なんだ黒服って?」

「秋の会社ってね、一人前だって認められないと名刺をもらえないんだって。黒服って言われる立場にならなきゃ持つことができないんだよ」

「ということは、秋は会社で認められたってことなの?」

「そうだよ。だよね、秋」

俺は頷いた。

「秋、あなたいつの間に」

「俺本気だよ、結婚のこと」

「どんな女性だ?」

しばらく黙って名刺を見ていた親父が訊いてきた。

「きれいな人だよ、心も全部」

「そうか」

「秋、家に連れてらっしゃい。お母さん会いたいわ」

「……」

「どうしたの?」

「無理だよ。連れて来たいけど今は無理なんだ」

「どうして?」

「故郷に帰ってる。入院してるんだ」

「入院?」

「癌なんだスキルス胃癌」

俺の言葉にすぐさま反応したのは春だった。将来医者になるんだから当然といえば当然だろう。

「マジかよ、本当か?兄ちゃん」

「あぁ」

「いつだよ、いつわかった?」

「5月かな」

「それじゃもう…」

「そうだよ。時間がない」

「何二人で?わけわかんないんだけど。時間がないって何なのよ、スキルスって何?」

「癌の一種だよ。すっげぇ質が悪い。ものすごいスピードで進行するんだ。自覚症状もないし、なかなか気づかない。気づいたとしても体重が減ってしまうくらいで、体重を気にする女の人はつい喜んでしまうんだ。でも段々減って不安になって検査を受けたときにはもう遅い、ほとんど助からない。」

春の説明は「さすが」そう言ってしまいたいくなるほどだった。

「春の言った通り、もう助からない。でも俺は一緒になりたいんだ。残りわずかかもしれない。それでも樹と結婚したいんだよ」

「イツキさんて言うのね。どんな字を書くの?」

「樹木の樹」

「いい名前だわ」

「同情じゃないのか?父さんは反対だ」

「同情なんかじゃねーよ!同情なんかじゃ絶対ない!」

「あちらの親御さんは何と言っている?」

「まだ何も話してねーよ。樹にもな。親父にOKもらってからって決めてたからさ」

「父さんが許してもあちらさんが許さんだろうな」

「どうして?」

「お前がいつか人の親になったらわかる」

「んなもん知らねーよ!俺はやっと樹に追いついたのに、必死にここまでやってきたのに、なんでだよ!親父がOKしてくれないと前に進めねーだろうが」

それ以上俺は何も言えなくなってしまった。俺にとって樹がどんなに大切な存在なのか説明しようとしたけれど、言葉にすればするほど安っぽいものになりそうで、だからもう何も言葉にできなかった。

重たい空気の中で、お袋が親父に言った。

「あなた、あなたが私と結婚を決めた時、もし私が樹さんと同じような立場だったとしたら、あなたは私をほっぽり出したの?」

「な、何を言い出すんだお前は!それとこれとは」

「別じゃありませんよ!」 お袋が遮った

「あなた、そんなに薄情な人だったの?どうしましょ、私ずっと騙されてたわ」

「な、何を馬鹿なことを」

「あーあーっ、離婚だね。お父さん大変だよ、その年で離婚なんて、私は知らないからね」

「夏!」

「俺もしらねぇ」

「春!」

「秋、離婚届取ってきてちょうだい!」

「お袋…」

「わ、わかった。お前の人生だ。思うように生きなさい。まっ、今までも好き勝手やりたい放題やってきたんだがなぁ。ただ一つ、ちゃんと筋を通してOKをもらってきなさい。お前は大人の男なんだから」

「サンキュー」

俺は実感した。いつもニコニコして親父の言いなりになっているとばかり思っていたお袋が、実は親父を手のひらの上で転がしていたのだと。
そういえば、俺が他校の奴らと喧嘩して補導された時、いつもおどおどすることなく、お巡りに「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げ、迎えに来てくれていた。そして俺に「弱い子相手じゃないんでしょ」そう訊いていた。今思えば、お袋が一番肝が座っていたのだと、母親の偉大さを俺は痛いほど思い知ったのだった。

「さっ、早く行きなさい」

「ちょっと待って!あんたお風呂入ってないでしょ!そのままじゃ嫌われちゃうよ」

俺は自分を眺めた。そういえばシンガポールを発つ前日の夜に入ったきりだ。
スーツも涙やら何やらでシミになっている。おまけに飯も食っていない。そう思った瞬間、腹の虫が鳴った。

「お風呂入ってらっしゃい。何か作っておくから」

「うん」

俺はシャワーを浴び、お袋の作ってくれていた焼きうどんを一気に頬張ると、落ち着く間もなく家を出た。予約していた最終便まで時間があったこともあり、俺は登戸のマンションへ向かった。
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