秋恋 〜愛し君へ〜
玄関の扉を開け中に入ると、懐かしい匂いに包まれた。西側の窓から見える夕日は、樹と初めて見た時と同じだった。
俺はうっすらとオレンジ色に染まった静かな部屋を見渡した。いつも通り、きれいに整理整頓されている。
「ただいま」そう言って樹が帰ってきそうだ。
でも、壁にかけられたカレンダーを見て、俺は胸が張り裂けそうになった。めくられることのなかったカレンダー。今は9月なのに6月のままになっている。
余命半年と言われ、俺に会えないことを覚悟して、それでも俺に心配かけまいと電話で普通に振る舞って、たった一人この部屋で、どんな思いでいたのだろう。
そんな樹の気持ちを思うと、一気に瞼の裏が熱くなり、涙が溢れ出してしまった。そして後悔と恐怖にも襲われた。
樹が痩せたとわかっていたのに、どうしてあの時病院に行くように言わなかったのか。もし言っていれば助かったのかもしれない。樹のいない人生を俺はどうやって生きていけばいい。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「畜生!畜生!畜生!」何度も何度も繰り返し、枕に顔を埋めて大声で泣いた。いつまでたっても涙は止まらず、一生分の涙を流してしまったんじゃないかと思うほどだった。
俺はこんなに泣き虫だったのだろうか…


トゥルルルル、電話のベルが鳴った。鳴り続けるベルの方に俺の足は向かっていた。そしてゆっくり受話器を取った。

「はい」

「秋ちゃん?」

「樹どうした⁉︎何かあったのか」

「ううん、なんだか秋ちゃんがいるような気がしたの。出てくれると思った。秋ちゃん風邪ひいちゃった?鼻声だよ」

「いいや、ちょっとくしゃみしただけ。樹、どこからかけてる?」

「1階にある公衆電話」

「大丈夫なのか?」

「うん、平気。秋ちゃんの声聴いたからソッコー復活」

「俺の真似?」

「うん」

「樹、今から行くから待ってろ」

「実家には帰ったの?」

「帰ったよ。みんないた」

「そっか、良かった。今から来るって、遅くなっちゃうよ」

「何?会いたくないの?俺、ショック」

「そんなこと…会いたいよ、凄く」

「樹、もう気を使うな。変な気使ったら罰金取るぞ。わかったか?」

「うん」

俺は電話中も涙が止まらなかった。気持ちを切り替えようと洗面所で何度も顔を洗った。冷たい水が俺に喝を入れているようだった。

俺は最終便で宮崎へ飛んだ。結局病院へ着いたのは22時だった。病室のドアを開けると樹が声をかけてきた。

「秋ちゃん」

「樹、起きてたのか?」

「うん、会いたくて会いたくて待ってたの」

「ごめんな遅くなって」

「ううん、秋ちゃん疲れたでしょう」

「ほらまた、罰金!」

「だって、秋ちゃん、一日で何百キロも移動したんだよ。昨日も入れたら恐ろしいくらい」

「平気だよ。俺、飛行機に乗ってるだけだぞ。しかも寝てるし」

「そう?」

「そう」

「ねぇ秋ちゃん、お願いがあるの」

「ん、何?」

「……」

「樹?」

「キス、しくれる?」

樹は頬を赤らめた。

「どこに?」

「ここ」

バランスの良い上品な唇を指差した。
俺はそっと唇を重ねた。やわらかくて、世界で一番愛しい女性の唇に。

時間よこのまま止まってくれ、そう願いながら……
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