桜の鬼【完】
夏桜院の使用人として働いていた母は幹人の子を身籠り、この家を追い出された。当時幹人には婚約者があった。今は正妻である早子(さこ)だ。早子は日本舞踊の家元の娘で、旧家の跡取りである幹人の婚約は、幼い頃よりの決めごとであった。
しかし早子は子が産めず、跡取りにと、行方をくらましていた元使用人の娘を探した。
母が何と言われて、何と言って承諾したかは、湖雪にはわからない。けれど湖雪には、捨てられることは前からわかっていた。
湖雪は夢を視る。先に起こり得ること――予知夢を。
あの日の光景も、一週間ほど前に夢で視ていた。
降りしきる雪。握った手。軽蔑の視線。背中。
知っていたから、母が自分を置いて行くことに不安はなかった。……ただ、少しだけ期待していた。この夢が、壊れる日が来ることを。
……しかし見たのは夢と同じ光景。そして、夏桜院に入った湖雪の予知夢の力は衰えるどころか益々強くなっていった。
母屋にやって来ると、幹人と早子が食卓に着いていた。その後ろに料理番の人たちが控える。
入って直後、湖雪は畳に手をついて頭を下げた。
会話はない。応じる気配もない。
促されることもなく、湖雪は自分の位置に着いた。
当初はどうしていいか迷っていたが、幹人に一度、「そこに座りなさい」と言われた場所以外、湖雪の席はなかった。
幹人が箸を持って料理に手をつけるまで、湖雪と早子は正座で微動だにしない。
やや置いて、早子が箸に触れてから湖雪も朝食を摂る。
一切言葉のない空間。