一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。
それ以降、副社長はこのフロアに来ることが無いまま一ヶ月が経過した。
「鮎原さん、このデータ打ち込んどいてくれる?」
「わかりました」
同僚の先輩から資料を受け取り、パソコンの前でキーボードを叩く。
新しい仕事は学生時代の友人に紹介してもらえることになり、今度面接に向かう予定だった。
そんなある日の金曜日。仕事終わりに自社ビルを出たところで、また人だかりを見つけてしまった。
……何だかすごく嫌な予感がする。
さりげなくその人だかりから遠ざかろうと歩き出した時、後ろから「鮎原さん!」と私を呼ぶ声が聞こえた。
「は、い?」
振り返ると、先輩が私のスマホを持ちながら走って来ていた。
「鮎原さんっ、良かった。スマホ忘れてるって思って走って来たのよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
「気を付けてね、じゃあまた来週。お疲れ様」
「はい。お疲れ様です」
先輩にお礼を言って、スマホをしっかり握って歩き出そうとすると、今度は横から手を掴まれた。
「え……?」
「鮎原、さん?」
そこには一ヶ月ぶりの副社長の姿が。
あの人だかりは、やっぱり副社長だったのか……!
「……あ」
「鮎原さん、ですよね?」
その端正な甘いマスクは、焦りで歪んでいるように見えた。
「え、えっと」
「僕のこと、覚えていますか?一ヶ月程前に、バーで一緒に飲んだ蒼井と申します」
「……」
私が忘れていると思ったのか、副社長は私の手をギュッと握る。
「今鮎原さんを呼ぶ声が聞こえて、もしかしたらって思って!」
気が付けば両手を握られていて、私はその勢いに圧倒される。
「ずっと、謝らないといけないと思っていたんです!いくら酔っていたとは言え、初対面であんなこと……」
それ以上はどうか何も言わないで!
副社長もこんなところでする話ではないと思ったのか、一度深呼吸をしてからそこで口を噤んだ。
「僕、ここのオフィスに勤めているのですが……。あの、今鮎原さんもここから出て来ましたか?」
「え、あ……」
否定も肯定も出来ないのは、周りからの視線が痛いからだ。
さっきまで副社長の周りにいたであろう女性社員達がものすごく私を睨んでくる。
"副社長とどういう関係なの!?"という視線が、私の身体に穴が開きそうなほどに突き刺さる。
ど、どうしよう……。
どうすればいいのか頭をフル回転させて考えるものの、良い案は浮かばず。
「……あ、の!ごめんなさい!」
副社長の手を振り切り、全力疾走でその場から逃げ出す。
「あ!ちょっと!待ってください!」
後ろから副社長の焦ったような声が聞こえるものの、私は振り返らずに真っ直ぐ駅の方へ走った。