夫婦間不純ルール
私が部屋にいないことに気付いた夫が電話をかけてくる、そんな当たり前のことが頭の中からすっかり抜けていた。スマホと財布だけ持って姿を消していれば誰だって驚くに決まってる。そんな当たり前のことも考えられなくなっていたなんて。
「出なくていいんですか、あいつでしょ?」
「……うん、後で連絡するわ」
本当にいいのか? と問いかけるような奥野君の眼差しから顔を逸らして、店の壁の時計を見る。さすがにこれ以上ここにいてもマスターの迷惑になるだけだ。
「美味しかったです、おいくらですか?」
「試作品だから、お代はいらないよ。また来た時に、ちゃんと感想を聞かせて欲しいくらいかな」
マスターはグラスを磨く手を止めずそう返事をして、柔らかな笑顔を向けてくれる。奥野君がここによく来る理由も十分理解できる、とても素敵なお店だと思った。
私は深々と頭を下げて、奥野君にもう一度視線を戻した。彼にもきちんと礼を言わなければならない。
「奥野君、今日はありがとう。でも、もう会わな――」
「それは約束しない、俺は二度も雫先輩を諦めたないから」
腕を掴まれてグッと引き寄せられる。その力強さに驚いたが、手を伸ばして距離を取ると財布とスマホを持って急いで店から出て行った。
……初めて見る、奥野君の男の顔に戸惑いと胸の痛みを抱いたまま。