垢玉
「もうすぐ夕立が来るから、長居はできないな」
「私の家に来てよ」
静けさが公園を包み込んで離さない。
僕たちが歩いているアスファルトの道は、湿気を含んでいつもより重く黒くなっている気がする。彼女の横顔の輪郭は、画家によって描かれた有名な作品のように美しく、鮮明だった。
あれ、どうして、どうして君は垢玉を首から下げていないんだい。君は、君の醜悪さを外部に露呈しようとは思わないのかい。君は、君の身体から生まれた気色悪さを、自分の身に纏うことはしないのかい。なぜ、そんなにも垢を隠すの。垢は、凄まじく酷いが。垢は、君の肉体の一部でもあるのに。
声には出さなかった。ただ、心の中で何度も呟いた言葉は、ただ僕の胸に突き刺さって、悲しい程、僕の胸を空っぽにした。
今日は大事な話があるの。すぐ終わるんだ。でもね、悪い話じゃないのよ。別れるとかそういう重い話じゃなくて、もっと深いの。ねえ、瀬戸くんは人間の中身を覗いたことってある? ねぇ、人間の体内って神秘的じゃない? 私ね、夢を見るの。夜寝ている時に見る夢だよ。そこではね、私は広い海の真ん中に一人でボートに乗っていて、ゆっくりと波に流されているのよ。夜が来て、朝が来て、そしてまた夜がきて、でも必ず夜は明けるの。その明け方の空を見るとね、大きな内臓が浮かんでいるの。心臓とか肝臓とか、腎臓とか、腸とか、ごちゃ混ぜになったグロい塊が、ぽっかりと空に浮かんでいるんだよ。いやだ、気持ち悪いって私が叫ぶと、海から声が聞こえてくるの。
これはアナタの身体の内側に存在する大切な器官の一部なのです!
小さな雨粒が僕たちを打つ頃、彼女の家は目の前に見えてきて、僕は逃げ切ったと思った。
藍ちゃんの後ろ姿は、綺麗だけれど、何となく、ショーウインドーに展示されたマネキン人形に似ている。
雰囲気に生き様が感じられなかった。彼女の顔立ちは美しいから、どちらかというとマネキンというより、球体関節人形かもしれない。
恐ろしく造形された人形。執念で美を表現したような、何者かに作られた魂の入れ物。
彼女の家に入り、三階に上がってふと窓を眺めると外は土砂降りになっていた。
スコールだ。あの雲の中で何かが暴れているんだ。庭が波打っている。白い煙が立ち込めている。空はあまりにも濁っていて、しかしその一部には、しっかりと夕日が反射して黄金に輝いている。
きっとあの積乱雲の中には何匹もの龍がいる。僕はあの龍に食い殺されないように、ジッと身を潜めていなくてはならない。
僕は僕自身の垢玉をギュっと握りしめ、祈り、龍が過ぎ去ってくれるのを待つしかないのだ。
ねぇ、どうしてそんなに垢玉に執着するの?
気が付くと僕は本当に垢玉を握り締めていたようだ。手の平は、余程きつく握っていたためか爪が食い込んで内出血を起こしている。
紫色の三日月みたいに、くっきりと。痛みが血管に沿って流れて腕全体に広がっていく。熱を帯びたその痛みは、割れたガラスの破片のように繊細だった。
「ねぇ、そんなに汚いの?」
「違うんだよ、これは、違うんだよ。僕は、もう分からなくなったんだよ。君の垢玉は美しいけれど、僕の垢玉がどれくらい醜悪で、どれくらい綺麗なのか、その指標がぜんぜん分からないんだ」
「私は、君の垢玉……好き」
「偏見だよ。君は、僕と一緒の時間を過ごしてきたから、バイアスが掛かってそう見えるだけなんだよ」
「ねえ、だったらどうしてアナタは私の垢玉……美しいって表現してくれたの?」
「事実を言ったまでさ。美しいから美しい、それ以上に何があるんだよ」
「うそ、アナタは私の垢の汚さを見て、汚いって言わなかった」
「分からないんだ。もう、何もかも分からなくなったんだ」
目の前を、コオロギの大群が動き回るような感覚だった。頭がくらくらとする。
藍ちゃんは、僕を見透かしているんだ。僕の垢玉が全国的にどの程度の醜悪さに位置してあるのか、その指標をきっと知っているのだ。知っていて、僕にそれを気づかせようと、わざと言葉を濁して伝えようとしている。
「私も分からないの」
彼女はうつむきながら、深刻そうな表情をしながら、そう言った。