垢玉
第三話
そういうことで僕は今日、彼女のお家にお邪魔することが許可されたのであった。自分はこのとき、実はかなり戸惑っていた。今まで割と積極的に女子に声をかけ、食事に誘ったり、男友達との遊びに誘ったりした経験はあるのだが、正直断られることのほうが多かった。
その度に僕は自分のトーク力の下手さと不甲斐なさを実感して打ちのめされていたのだ。けれども、それが今日こんなにもあっさりと藍ちゃんと仲良くなれたことに驚きと戸惑いを感じていた。
「この後、授業あるの?」
と藍ちゃんが僕に聞いてくれた。実のところ僕はこの後に授業が待っていたのだったが「そうそう、授業があるんだ」などと言ってしまうのは非常に勿体ないことだと思ったので、言わなかった。暇を持て余していて仕方が無いんだ。と僕は彼女に伝える。
ふと彼女の表情を見ると、さっきよりもだいぶ顔の緊張感がほぐれているように感じられた。あからさまに親密度が上がっているような気がして、僕は本当に嬉しかったし、内心飛び跳ねて喜びたいところだった。
いままで遥か上空に浮かんでいた一筋の飛行機雲が形を失い、薄く幅が広がっている。
学内の建物から生徒たちの大群がぞろぞろと出てきて、騒がしくあった。もうお昼の時間である。僕は空腹を感じていた。
もしかしたら彼女もお腹がすいているのかも知れなかった。どう声を掛けようか、と考えているうちに、段々と僕の脈拍は上がってきて、声を掛けるのをためらい始めてしまったのだ。
「おなか、すいたね」
と、彼女は言った。
「そうだね」
と、僕は言った。
どこかに食べに行こうか、と僕が言うと、彼女は鞄を持って立ち上がる。桔梗がいい。と彼女は言う。
桔梗というのは学内にあるレストランのことで、よくいろんな教授がそこで食事をしている。比較的広くて空いているのだが、値段がやや高い。いつも僕は値段が安いほうのレストラン「カフェテリア・ブルー」で味噌ラーメンを食べるのだ。でも今日は藍ちゃんと桔梗に入って、なんか同じメニューを食べたい。
桔梗はいつも空いていて、教授たちが多い。その代わりにカフェテリア・ブルーは開いている席が一つも無い程には混んでいる。そうして一杯二百二十円の、かけうどんが生徒たちから大人気だ。みんなお金が無いのかもしれない。
桔梗は匂いが良かった。いつも魚介類の匂いがした。自分はあまり刺身を食べないのだが、僕は教授たちがよく海鮮丼を食べている姿を目にする。
「ねえ、垢玉を作るとき、掘り師はお客さんの背中を見るじゃない」
食券を買うために列に並んでいると、藍ちゃんに後ろから声を掛けられた。僕は振り向いて相槌を打つ。
「掘り師はそのとき、お客さんの背中に浮かび上がる垢を、ヘラですくうの。それでね、私はお客さんの背中に浮かび上がった垢の表情を見たくって、いろんな動画サイトを漁っているんだけど、なかなか見つからないのよね」
「垢の、表情?」
「そう。垢の表情。私の担当だった掘り師さんは、そう表現していたよ。お客さんによって、垢の表情が違うんだって、たぶん笑ったり泣いたりはしないんだろうけど、本気で垢玉の掘り師やっていると、見えてくるものもあるんだろうねぇ」
彼女の表情は輝いていて、とても綺麗だった。垢玉の掘り師にある種の憧れを抱いているのかも知れなかった。
その度に僕は自分のトーク力の下手さと不甲斐なさを実感して打ちのめされていたのだ。けれども、それが今日こんなにもあっさりと藍ちゃんと仲良くなれたことに驚きと戸惑いを感じていた。
「この後、授業あるの?」
と藍ちゃんが僕に聞いてくれた。実のところ僕はこの後に授業が待っていたのだったが「そうそう、授業があるんだ」などと言ってしまうのは非常に勿体ないことだと思ったので、言わなかった。暇を持て余していて仕方が無いんだ。と僕は彼女に伝える。
ふと彼女の表情を見ると、さっきよりもだいぶ顔の緊張感がほぐれているように感じられた。あからさまに親密度が上がっているような気がして、僕は本当に嬉しかったし、内心飛び跳ねて喜びたいところだった。
いままで遥か上空に浮かんでいた一筋の飛行機雲が形を失い、薄く幅が広がっている。
学内の建物から生徒たちの大群がぞろぞろと出てきて、騒がしくあった。もうお昼の時間である。僕は空腹を感じていた。
もしかしたら彼女もお腹がすいているのかも知れなかった。どう声を掛けようか、と考えているうちに、段々と僕の脈拍は上がってきて、声を掛けるのをためらい始めてしまったのだ。
「おなか、すいたね」
と、彼女は言った。
「そうだね」
と、僕は言った。
どこかに食べに行こうか、と僕が言うと、彼女は鞄を持って立ち上がる。桔梗がいい。と彼女は言う。
桔梗というのは学内にあるレストランのことで、よくいろんな教授がそこで食事をしている。比較的広くて空いているのだが、値段がやや高い。いつも僕は値段が安いほうのレストラン「カフェテリア・ブルー」で味噌ラーメンを食べるのだ。でも今日は藍ちゃんと桔梗に入って、なんか同じメニューを食べたい。
桔梗はいつも空いていて、教授たちが多い。その代わりにカフェテリア・ブルーは開いている席が一つも無い程には混んでいる。そうして一杯二百二十円の、かけうどんが生徒たちから大人気だ。みんなお金が無いのかもしれない。
桔梗は匂いが良かった。いつも魚介類の匂いがした。自分はあまり刺身を食べないのだが、僕は教授たちがよく海鮮丼を食べている姿を目にする。
「ねえ、垢玉を作るとき、掘り師はお客さんの背中を見るじゃない」
食券を買うために列に並んでいると、藍ちゃんに後ろから声を掛けられた。僕は振り向いて相槌を打つ。
「掘り師はそのとき、お客さんの背中に浮かび上がる垢を、ヘラですくうの。それでね、私はお客さんの背中に浮かび上がった垢の表情を見たくって、いろんな動画サイトを漁っているんだけど、なかなか見つからないのよね」
「垢の、表情?」
「そう。垢の表情。私の担当だった掘り師さんは、そう表現していたよ。お客さんによって、垢の表情が違うんだって、たぶん笑ったり泣いたりはしないんだろうけど、本気で垢玉の掘り師やっていると、見えてくるものもあるんだろうねぇ」
彼女の表情は輝いていて、とても綺麗だった。垢玉の掘り師にある種の憧れを抱いているのかも知れなかった。