囚われのシンデレラ【完結】
”すべてが足りない。まずは、それを認識しなさい”
分かり切っていたことだ。足りないに決まっている。
先生が立ち上がり、私に新たな指示を出す。
”君の基礎練習のメニュー、やってみせて”
言われた通りに必死に弾く。ここ数日、曲よりも、音階やエチュードを中心に練習していた。
”君は、エチュードが弾けるようになりたいのか?”
笑顔一つない、厳しい表情でそう私に聞いた。
”今後、無駄な繰り返し練習はしないこと。一つ一つの音をきっちり耳を最大限に使って聴くこと。弾くたびに絶対だ。100回繰り返すより、よっぽどためになる。音階であろうがエチュードであろうが曲であろうが、耳を研ぎ澄ませて。君の耳はなまりきっている”
多分、ソコロフ先生のその口調から、本当はもっと厳しい言い方をしたのではないかと思う。それを木藤さんの通訳が柔らかいものに変えてくれたのかもしれない。
でも、次の言葉はおそらく、敢えて木藤さんがそのままに訳した。
”ポンコツの耳をどうにかしろ”
そして、先生がバイオリンを構える。
”バイオリンの音とは、こういう音のことを言う”
同じ空間で間近で聴くプロの音――。
私の身体を突き抜けて、魂を持っていかれる。身体が、忘れていた音楽を呼び寄せるみたいに興奮した。
”それに比べて君の音は、空っぽだ”
その後、木藤さんが先生からの指示を私に伝えて来た。
「次回、先生は2週間後にみてくださいます」
「え……? そんなにすぐ?」
相手はプロだ。月に一度だって凄いことなのだ。まずそれに驚く。そして『次』があることに安堵する。
「はい。その前に、一週間後私がレッスンします。それまでの課題です」
渡されたメモを見て、言葉を失う。
「こ、こんなにですか?」
「はい。ただ、回数だけをこなす練習はやめてください。一音一音、吟味する。これはまず眠っている耳を覚ますためのメニューだから、時間をかけてちゃんとやってください。いいですね?」
「は、はい」
「腕を痛めない程度に、適度に休憩を入れながら。でも、ある程度の時間は覚悟してください。早く、勘を取り戻さないといけませんから」
早く――。
その言葉が心に引っかかる。
「それから。もちろんこの先も私が通訳をしますが、あずささんもロシア語を覚えるようにして。その方が絶対に有意義なレッスンになるから。これ、使って。私が留学時代にお世話になったテキストよ」
「ありがとうございます」
渡されたテキストは、ロシア語の基礎のようなものと、音楽用語専門のテキストだった。
レッスンを終えホテルの部屋を出ると、気付けば走り出していた。早く家に帰って弾きたい。
あんな音を自分でも出してみたい――。
まだこの耳にしっかり残っている。
ソコロフの陶器のように滑らかでありながら厚みのある音。低音の、地中深くまでを掘り起こすような骨太な音と、天使の歌声みたいなどこまでもきらきらとした高音。
久しぶりに感じる音が、私の身体中の血を湧き立たせる。