囚われのシンデレラ【完結】
マンションに着くなりバッグを投げ出して、バイオリンを取り出した。
脳内で再現したものを自分の手でも再現したい衝動に駆られる。
どうして皆が、大金を払ってまで、有名バイオリニスト、特に海外の超一流バイオリニストに教えを乞いたいと思うのか。それは、それが短い時間であろうと、超一流の音を間近で感じられるからだ。それが、どんなレッスンより価値あるものになる。肌で感じた音は、そのまま直接自分の身体に入り込む。
ただひたすらに、何かに憑りつかれたみたいに弾き続けていた。
「――あずさ」
その声にハッとする。次の瞬間に、視界が明るくなる。慌てて窓の向こうを見ると、暗くなっていた。月明かりだけの明るさの中でいたのか。
一体、どれだけ弾き続けていたんだ――。
「電気も点けないで練習していたのか?」
西園寺さんが私を見ている。
「おかえりなさい。すみません、リビングで弾いてしまって」
「いいよ。そのままで。狭い部屋で弾くより広い部屋の方がいいだろ。これからもここで練習すればいい」
「でも――」
リビングダイニングは西園寺さんも寛ぎたいだろう。楽器の練習ほど騒音はない。
「俺がいいと言っているんだ。気にせず練習していい。それで、今日はどうだったんだ?」
「はい! 聞いてください!」
壁にもたれて立ち腕を組む西園寺さんに、待っていましたとばかりに身を乗り出す。
「本当に凄いんです! 本物の、超一流の音は全然違う。あんなに間近で、あんな音を聴いたら興奮せずにはいられませんでした」
「――で、君自身はどうだったんだ?」
「あ……はい」
その質問に、勢いが止まる。
「予想はしていましたが、全然ダメでした。耳がポンコツだと言われました。でも……忙しいソコロフ先生が次のレッスンの約束もしてくださったので、精一杯やれることをして次回レッスンに行こうと思っています!」
「……ポンコツだと言われた割には、嬉しそうだな」
「はい。あんな音聴いてしまったら、居ても立ってもいられなくて。とにかく今は、バイオリンを弾きたくてたまらないんです!」
西園寺さんが私の顔をじっと見つめている。
「あ、あの、西園寺さん……?」
不思議に思って西園寺さんを見上げた。
「……頑張れよ」
そう言った顔がどこか嬉しそうに見えて。でも、それだけじゃないものも感じる。何かを振り切るように、私から顔を逸らし立ち去ろうとした西園寺さんの背中に言った。
「私、外国の一流バイオリニストにレッスンしてもらったことなんてないんです。初めて経験して、それが本当にどれだけ価値あるものか実感しました。全部、西園寺さんのおかげです。本当にありがとうございます」
その足が止まる。
「礼なんて必要ないと言ってるだろ。全部、俺自身のためにやっていることだ」
「はい、分かってます。少しでも西園寺さんが他の人に自慢できるように、私、頑張りますから」
そう言うと、私に顔だけを向け少し笑った。
「楽しみにしてる」
「はい!」
バイオリンを弾くことが楽しい。
お父さん。私、もう一度楽しいと思っても、いいよね――。
どれだけ大変でも、子供の頃からずっと続けさせてくれたのだ。
バイオリンを再開させること、もしかしたらお父さんも喜んでくれるかな――。
そんな風に思えるようになったのも、西園寺さんのおかげだ。
その週末、西園寺さんが依頼したという業者がドレスを持ってマンションにやって来た。買い物には”行く”ものだと思っていた。こんな風に店の方が“来る”なんて、考えたこともない。