囚われのシンデレラ【完結】


 それからは、家事をして、病院に行って、そしてバイオリンを弾く――それだけで1日はあっという間に終わって行った。

 仕事は辞めたし、アパートにも帰っていない。そのおかげで、完全に柊ちゃんとの接点はなくなった。これで、良かったのだと思う。


 母のリバビリも、理想的なくらいに順調に進んでいる。一番の問題は、私のバイオリンだ。

「……うん。少しずつ、焦らず。でも、確実にレベルを上げて行きましょう」
「はい」

木藤さんとの90分のレッスンを終えた後には、もうフラフラだった。

「あずささんは、音大中退だよね。だったら、ソルフェージュ関係(音楽理論や聴音などのこと)は問題ないよね?」

ぐったりと椅子に座っていると、木藤さんがさらりとそんなことを言った。

「一通り勉強しましたけど、もう7年前になるし」
「じゃあ、少し昔のテキストでも広げておいて。音楽するのに、基本的知識が必須なのは分かってるよね?」
「はい、もちろんです」

クラッシックを本格的に演奏するためには、演奏技術と、曲を理解するための音楽的知識が必要になる。

「それから、曲のレパートリーをとにかく取り戻して……」

何やら考えながら、木藤さんがぼそぼそと呟いている。

「あの……、木藤さんはいつ留学したんですか?」

大学生の時、留学したいと強く憧れていた。それも、木藤さんが留学していたのは私が希望していた音楽院だ。

「私? 私は音高卒業してからかな」
「じゃあ、日本の音大には行かずにそのまま?」

18、9歳でモスクワに渡ったことになる。

「そうよ。だって、クラシック音楽だよ。どうせ同じ時間勉強するならさっさと本場に行っちゃった方が手っ取り早いかと思って。あとは、若さ故の怖いもの知らず」

木藤さんが笑った。

「日本では、向かうところ敵なしって感じでね。私、天才じゃないかなって思ったの。よし、世界に行くぞって。でも、その天狗の長い鼻も、あっちに行ったらあっという間にへし折られた。一気に自信喪失」

そう言いながらも、その目は懐かしそうに微笑んでいる。

「みんな死ぬほど上手いの。技術だけじゃない。音楽に対する情熱も愛も凄くて。いい音楽を奏でるために、文化、芸術、政治、いろんな知識を持ってた。音を奏でる背景が全然違う。そりゃもう、刺激されまくりで。モスクワでの日々が、人生で一番音楽に真面目に向き合った。あの時間が、私の音楽を生まれ変わらせてくれた」
「音楽と真摯に向き合う、濃い時間だったんですね……。私も、学生の頃、留学したいなって憧れていました」

自分が弾く曲が生まれた場所で、その空気を感じながら音楽が出来たらどんなにいいだろうと思っていた。

「向こうに行って良かったって、本当に思う。至る所に音楽が転がってるの。安い値段でコンサートは行き放題。音楽院のホールでは常に音楽が鳴ってる。チャイコフスキーコンクールの会場でもあるしね。毎日、落ちこぼれないように必死だったけど、幸せな時間だった」

私が叶わなかった夢の話。それは、純粋に私の胸を躍らせた。聞いているだけで、自分も体験したみたいに思えて楽しい。

「まさに私の憧れを経験した木藤さんに習えるだけで、その空気を感じられます。凄くありがたい」

そう言って笑うと、木藤さんがぽつりと言葉を溢した。

「あずささん。人生って、長いんだよ? あなたはまだ27歳」
「え? もう27ですよ」
「ううん。まだまだ、音楽に向き合う時間はたくさん残ってる」

その言葉が、私の胸に残る。

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