囚われのシンデレラ【完結】
ソコロフ先生のレッスンは、相変わらず厳しい。でも、その分だけ、先生が本気で私に向き合ってくれているのだと分かる。
"そこはそうじゃない。何度言えば分かる? 君の耳は、一体何を聴いているんだ! その音で、自分が納得できるのか?"
たったの一音でも、気を抜けばすぐに止められる。
"楽譜に一音たりともなくていい音なんてないんだ。君が勝手に手を抜くなど、何様のつもりだ"
「はい……っ!」
辛辣な言葉も、細かな指摘も、それはすべて私の音に向き合い、音楽の本質を追及しているから――。
次から次へと出される課題にきちんと応えて行くには、生半可な気持ちでは到底無理だった。
マンションにいる時間のほとんどを音楽に費やした。
楽譜を分析し読み込んでいくために、たくさんの書き込みをする。その曲の持つ背景を徹底的に調べる。ロシア語も必死になって勉強している途中だ。
私にとって、どんな感情も、バイオリンを弾く原動力となっていた。
「――あずさ、ちょっと話があるんだ。いいかな」
2月に入ってそろそろ中旬になろうかという頃、仕事から帰るなり西園寺さんが私の元に来た。
「はい」
「そろそろ、君のお母さんが退院できそうだと、大石先生に聞いている」
「はい。そうなんです。おかげさまで、退院も見えて来たとおっしゃっていただいています」
バイオリンを置き、西園寺さんに向き合った。
「それで、考えたんだ。ここ、どう思う?」
「これ――」
西園寺さんから手渡されたのは、シニア向けマンションのパンフレットだった。
「お母さんが退院した後、あの家で一人で暮らすのは君も心配だろ? ここなら、24時間医療体制も整っている。食事も提供されるし、すべて必要なものは揃っている。もちろん、君は自由に行き来もできる。どうかな」
「で、でも、こんな豪華な施設――」
設備の整った、豪華なマンション。ここなら、確かに突然体調を崩した時でも安心だ。
だけど――。
一体、どれだけの費用がかかるのだろう。
「金のことなら心配いらない。とにかく、お母さんはもちろんのこと、あずさの不安を取り除きたい。こんなことだけで君の不安のすべてを取り除けるとは思っていないが、それでも、少しは安心できるだろ?」
「それは、もちろんです」
「ここなら立地も設備も問題ない。早速、お母さんの意見も聞いてみよう。決めるのは早い方がいい」
手渡されたパンフレットを手に、自分の部屋に戻る。
お母さんの大石先生による手術と入院。結婚するときにもらった、ダイヤモンドのあしらわれた高価な婚約指輪。ソコロフの個人レッスン。結局、着る必要のなかったドレス。
そして、このシニア向けマンション――。
改めて頭にそれらを浮かべ考え込む。この結婚で、気付けば私は西園寺さんから与えられてばかりだ。
私は一体、西園寺さんのために何をしたと言う――?
それなのに私は、日に日に苦しさが増している。
朝起きて顔を見て送り出して。夜になれば、仕事から帰った西園寺さんと少し言葉を交わすだけ。そんな西園寺さんとの生活が、苦しくなっていた。
好きだという気持ちは、私の置かれた状況なんて何も考慮してくれない。否応なしに膨れ上がる。大きくなればなるほどそれを隠すことが苦しくなる。向き合っても、話しをしても、近くにいるだけで苦しくなる。
どうして人は誰かを好きになると、触れたくなるんだろう。
今以上を望み、欲張りになってしまうのだろう。