囚われのシンデレラ【完結】
「音楽は、奏でた瞬間に消えて行く芸術。だからこそ、その一瞬の音にどれだけの想いを込め、どれだけ音に還元できるか。そういう点において、あずささんの感受性は音楽家にとって絶対に必要なもの。テクニックはとんでもなくあるくせに、聴いていてつまらない演奏家なんて腐るほどいる」
綺麗な黒い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
「あなたの感じたものをさらに精度を高めて表現するためには、今よりもっとテクニックが必要。そう考えるとブランクはもったいなかったけど、今からでも足りない部分を補うにはギリギリ間に合う。足りないテクニックをカバーするに余りある音楽性もあるからね。もっともっと勉強するべき。そのためには、本場に行くのが一番いい」
「え……?」
本場って……。
その言葉が私の心の奥底にある何かを刺激する。
「あなたには豊な感受性があるからこそ、すべてをそのまま吸収できる。全部があなたの音になる」
「それって、留学……ってことですか?」
「そう」
「……でも、私、これでも一応結婚しているので。留学というのは現実的ではないです」
そう言って笑った。
「それに、私が今バイオリンを弾いているのは、西園寺さんの妻として恥ずかしくないようにであって、彼が喜ぶから一生懸命弾いているんです。喜ぶ顔が見られればそれで――」
「あらあら、ごちそうさま。西園寺さん、いい男だものねー。隙なく着ているスーツ姿がむしろセクシーに見える、みたいな? あのテレビ観たよー。私の周りで観た人たちも結構騒いでたな」
木藤さんの声を聞きながら、手にしていたジョッキをそのまま一気に飲み干した。
「ちょ、ちょっと、そんなに一気に飲んで、大丈夫?」
「これくらい、だいじょーぶですよ」
どうしてこんなに喉に沁みるんだろう。締め付けられていた心が勝手に緩んで、その緩んだ先から感情が漏れ出てしまいそうになる。
「それにしても、あずささんは超ラッキーね。あんなにお金を持ってるいい男に惚れられて。音楽家としてそこも大事よ? 昔の作曲家なんて、だいたいみんなパトロンがいたんだからさ。それがあなたの場合旦那様だもの、最高じゃない」
「……そうなんですよね。私は、恵まれた幸せな人間なんです。ホントに」
頼んであった日本酒をお猪口に注ぎ、それも飲み干した。そのお猪口をテーブルに置く。
「何かあったの? 今日のレッスン、やけに辛そうだったけど」
「いいえ。辛いわけありません。辛いなんて言ったら、ばちがあたる」
心が欲しいなんて言ったら贅沢だ。
バッグの中に隠し持つバレンタインデーのチョコレート。結局渡せなくて、もう何日もそのままバッグの中に入ったままでいる。
愛してほしいなんて願うのは、間違っている――。
「私は、ただ、こんなに苦しいなんて思わなくて……っ」
好きな人と一緒に暮らしながら、どうすることも出来ない。それが、こんなにも自分を追い詰めるなんて思わなかった。
好きな人のそばにいてその人を支えることができるなら、それだけで十分幸せなんだと思おうとした。本当に身勝手だ。
「あずささん……」
もしもあの時。勝手に、斎藤さんに鍵を返したりしなければ――。
結局、そこに行き着くのだ。
斎藤さんに何を言われても、たとえ別れるという選択をしたとしても、自分の手で返しに行くべきだった。何の言い訳もできない。自分がしたことなのだ。
今頃になってアルコールが身体中を駆け巡り、感情を昂ぶらせる。