囚われのシンデレラ【完結】
その日の夜、社長である父親と顔を合わせた。
「漆原家のことをどう考えているんですか? 今日も会長と話をしたんですよね。うちには、あの家と縁戚を結ぶ利点はもうないでしょう」
「今は特にメリットはないかもしれないが、今後ないとも言い切れない。漆原に恩を売っておいて損はない」
その言葉に頭を振る。
「そんな理由で……。俺はもう結婚した。こんなのおかしいとは思いませんか?」
「少なくとも、おまえの今の相手より漆原の娘の方が価値があることには変わりない。愛情など後からついて来るものだ。それに、公香さんはおまえを想っているんだぞ? 結婚したら、さぞ大切にしてくれるだろう」
「――本気でそんなことを言っているんですか?」
目の前の父親が、幼い頃から尊敬していた人と同じだとは思えない。
「一体、何の弱みを握られているんです? そうでないと理解出来ない」
「漆原さんはそんな人ではない。ただ、どんなに真っ当な人でも、我が子のことになると人格が変わってしまう人間もいるからな。それで、おまえに泣きついたんだろ」
俺に向けた父親の目にぞっとする。
「もっと大人になれ。30にもなって女を感情で選ぶなど、立場ある人間のすることではない。おまえはただの社員ではないんだぞ? よく考えるんだな」
――どんなに真っ当な人間でも、我が子のことになると人格が変わってしまう人間もいる。
最悪の結末を受け入れる覚悟を、しておかなければならないのかもしれない。
この先、どうせあずさ以外の誰も愛せないのなら――。
戻った常務室で、窓際に立つ。窓の外の夜景を視界に映した。
簡単なことのはずだ。あずさのことは、最初から解放してやるつもりだったのだ。
あずさの母親の手術も成功して、無事退院も出来た。
あずさのバイオリンも、今ではソコロフも木藤さんもついている。後はあずさの意思一つ。もう、俺がいなくても大丈夫だ。
俺が公香さんと結婚することで、あずさを完全に守ることになるなら……。
自分のその後の人生を引き換えにしても惜しくない。
遠くで活躍するあずさを見られるなら、それで――。
そこまで考えて、額を窓に当てる。
どうしてだろうな。簡単な結論なのに、どうしても自分の心が抵抗しようとする。
共に暮らして来た中での、あずさとの他愛もないやり取りが浮かぶ。
あずさが笑う。
あずさが、毎朝俺を見送ってくれる。
あずさが、俺を見上げる――。
積み重なってしまったあずさとのささやかな日常が俺をかき乱す。
いっそ、好きだと言って無理やりに攫ってしまいたい――。
そんなこと、できるはずもないのに。
愛しているからこそ、彼女のために。
そう出来ると思っていたのに、たとえ形だけの夫婦でもまだ夢からさめたくないと足掻くのだ。
暗闇の中、眼下の小さな人間の営みを見つめる。