囚われのシンデレラ【完結】
epilogue


 モスクワの短い夏が始まる――。

 6月は、夏の始まりだ。

「――アズサ、調子はどう? うまく調整進んでる?」

音楽院に着くなり、同じ門下のロシア人学生、マルクの声が飛んで来た。

「上手く進んでることにする」

足を止めることなく歩きながらそう答えると、マルクが合流するように隣を歩き始めた。モスクワに来て2年、私は30歳になった。ロシア語も、なんとか使えるようになっている。

「アズサは相変わらずだな。絶対に、出来ないとか無理とか言わない」

白い肌に恐ろしく堀の深い顔で笑うと、その顔立ちが一気に甘くなる――らしい。それは、周囲の女子学生たちの評判だけれど。

この、私より10歳も年下の男の子とは、音楽院に入学した時からの知り合いだ。同じバイオリンの先生の門下生だから、少し親しいという程度。

「思っても口にしたって仕方ないし。泣きごと言ってる時間ないから」
「まあ、そうだな。難関の予備審査、せっかく通ったんだ。せめて、1次予選は通過したいんじゃない? アズサの実力なら、2次も行けるよ」

隣を歩くマルクより歩く速度を上げ、マルクの前に出た。

「じゃあ、私、急ぐから先に行くね」
「え、え……? アズサ、ちょっと待って――」

驚くマルクを置き去りにして、廊下を真っ直ぐにただ前だだけを見る。

「――1次予選、頑張って。みんなと応援に行くからね」

背後から聞こえる遠くなった声に軽く振り返り「ありがとう」と告げた。

2次じゃだめなのだ。
3次――ファイナルまで残らないと、意味がない。


 ずらりと並ぶレッスン室の一つに入る。私の住む音楽院の寮にも練習室はあるけれど、学校のレッスン室の方が響きも良く広さもある。コンクールが近付いているこの時期、出来る限り条件の良い部屋で練習したい。

 扉を閉めると、早速ケースを開く。
 
 この2年、ただチャイコフスキーコンクールのことだけを考えて生きて来た。

 周囲には、化け物みたいな才能を持った学生たちが世界中から集まっている。その中で実力を競い、少しでも上へとひしめき合う。

 最初の一年は、本当に地獄だった。若い学生たちのテクニックと勢いに圧倒される毎日。どの学生たちも既に輝かしいコンクール歴を持っている。否応なしに突き付けられる実力の差。この学校の中でも最年長の部類に入る私にとって、場違いな所へ来てしまってのではないかという怖さ。

練習しても練習しても追い付けない焦り――。

何度も、苦しくて逃げ出したいと思ってしまいそうになった。

 そんな私が逃げずにこの場所で這いつくばれたのは、ここに来るまでに手助けしてくれたソコロフ先生、木藤さんのことを思い出したから。そして何より、西園寺さんの想いがあったからだ。

 ストレスで嘔吐したりしても。寮を飛び出したくなっても、レッスンから逃げ出したくなっても。ここにいる意味が私を押しとどめた。

必ず何があっても、絶対に掴み取る――。

その気持ちが、私に前を向かせた。

 歯を食いしばるように逃げずに練習し続けて1年が経つと、ようやく少し余裕を持てるようになった。担当の先生が初めて微笑んでくれた。

『アズサの演奏を、世界の聴衆に届けよう』

6月中旬から始まる、チャイコフスキーコンクール。私はそのスタートラインに立つところまで来たのだ。

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