囚われのシンデレラ【完結】
1次予選の朝、音楽院の敷地内にあるチャイコフスキー像の前に立った。
どうか、ファイナルであなたのコンチェルトを弾くために、この予選を通らせてください――。
発想がやはり日本人だと思う。その像の前で手を合わせてしまう。
「――あの人、予備予選通った日本人だよね」
後ろを通り過ぎる学生の声が耳に届く。
「ああ……。ソコロフのごり押しの人でしょ? 実績もあまりない。それなのに大物音楽家に見初められて、二十代後半になってこっちに来て、いきなりチャイコフスキーだよ?」
「予備予選すら通らない人が何人もいるって言うのに。一体、どんな手を使ったんだか――」
背後を通り過ぎて行く女子学生同士のひそひそ話。
全部、聞こえていますよ――。
「大丈夫。ケリーの方が圧倒的に実力は上だから」
私は振り向くことなく、手を合わせたままでいた。
国際コンクールともなれば、そこに人生を賭けて出場する人がほとんど。本番直前の緊張は極限に近い。世界中から応募のあった200人ほどから映像審査の予備予選を通った23名が、1次予選の舞台に立てる。少ない枠に残るためにしのぎを削る。
ライバルたちを蹴落として自分が上に立つために、他のコンテスタントの失敗すら祈ってしまいたくなることもある――。
そんなの間違っているなんて綺麗ごとを言うつもりはない。でも、本当は誰もが分かっている。打ち勝つべき相手は他人じゃない。自分自身だ。
私のような人間が、予選の舞台に立つことすら奇跡だってことも分かっている。
分っているから、モスクワに来て、睡眠中以外はすべてを音楽に費やしていた。バイオリンを弾いて、生の演奏を聴いて、そしてまた弾いて。音楽以外のことをした記憶がない。
私には私にしか出せない音を。ただそれを、奏でるだけだ。
舞台袖で出番を待ちながら、じっと目を閉じる。
大丈夫――。
このドレスも、バイオリンケースにある写真も、何もかも。舞台に立つ私を、守ってくれる。
舞台から拍手の音が、私にとっての始まりの合図。椅子から立ち上がり、背筋をピンと伸ばした。