夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな番外編〜

『今だけは』


「そういえば、棚原先生、南川さんの手術は予定通りできそうなの?」
 外来診療が終わってすぐ、樫井は人と会う約束があると言って外出してしまい、棚原と大原、菜胡の三人が診察後の休憩をしていた。棚原にコーヒーを出しながら大原が聞いた。

「うん、喘息の方も大丈夫そうだし熱も出てないから、予定通りできそうですよ」
「そ、よかった」
 大原がホッと声を漏らした。菜胡も、足にワイヤーを付けて錘で引っ張っているのは窮屈だろうし、手術がどうなるのか気になっていたから、大原同様によかったと、胸を撫で下ろした。

「あらやだ、それ何時から?」
「十三時からですよ、どうかしました?」
 大原が勢いよく立ち上がった。何事だろうかと、二人は彼女の次の言葉を待つ。

「受付を早めに閉めてって頼むの忘れてたのよ!」
「え、そんなこと可能なんです? そうしてもらえたら助かります、少し余裕ができるから」
「大丈夫よ、大きな手術の時はいつも早めてもらってたのよ。あたしちょっと頼んでくるわ!」
 バタバタと外来を出ていく大原を見送って、二人きりになった。

 樫井が一人でこなしていた頃は、手術日の受付を早めに終了させていた。そうしないと外来が手術時間までに終わらないからだ。終わらなければ樫井は腹ごしらえもできず、空腹のまま手術室へ入る事になる。空腹が続けば集中は続かず判断力も鈍る。それじゃダメだと大原が言い出して、手術がある日の整形外来の受付は他よりも早めに終了させる事にした。半ば強引なやり方だが、小さくて古い病院ならではの融通性だ。

「そっか、一人だったもんな。大学病院ではきっと頼んでもムリだな、研修医も居るし、一つの科に所属の医師の数も多いから」
 菜胡もそう思う。大きなところはこんな融通は利かないだろう、と。

「ね、菜胡……明日、ハグさせて」
「ぅえっ?」
 唐突な頼みに、おかしな声が出た。
 ハグならばいつも予告無しでしてきたし、何なら初めの出会いから突然だったのだから今さらな気もする。

「何でっ、そんな変な返事なの」
 棚原がくつくつと肩を揺らして笑う。身体が揺れて、椅子がギシッと音を立てた。

「だって……! いっ、今じゃなくて、手術前、ですよね」
「うん。菜胡を補充すると頑張れそうなんだもん」
 
 ――もん、って言い方が可愛い……ずるい。

 そう言われたら断るどころではなくなる。どんな理由でも、頼りにされるのは嬉しいものだ。好きな気持ちが後押ししてくる。

「わかりました、フル充電してがんばってください」
 拳をキュッと握りしめ、力こぶを作る仕草をしながら笑いかければ、カップを脇に置いた棚原は菜胡の座る目の前に来て、背を屈めた。近づく唇の気配と、棚原の匂い。わずかに顔を上に向ければ、そっと唇が重なってきた。

「ん……」
 棚原の熱い舌が菜胡の熱と溶け合う。椅子に座っているのに身体の力が抜けていく。変わらず棚原とのキスは気持ちが良くて、たちまち頬も熱くなった。

 何度唇を合わせてもそれは変わることがなく、むしろ回数を重ねるごとに愛しさも積み上がっていた。

 離れたくない――。

 そんな空気が二人を包み始めた頃、吐息と舌が絡み合う音に混じってバタバタと足音が聞こえてきた。近づくにつれて、元気な声も聞こえてくる。

 外科外来の待合所あたりでその声は止まり、話し込んでいるのがわかった。大原は声も動きも大きい。だから少し離れていても居ることがわかるし目立つ。

「今日はこれで我慢する。明日のフル充電、たのしみにしてる……大原さん戻ってくるよ、蕩けた顔なおして」
 名残惜しそうに棚原を見上げ、瞳を潤ませたままの菜胡の、まだ少し熱い頬を軽く撫でて、棚原は耳元をくすぐるようにささやいた。

 蕩けた表情をしているつもりはなかったが、背筋を伸ばした。立ち上がり、椅子を片付けはじめたところで大原が元気よく戻ってきて、診察室に入るなり言った。

「先生、明日は十時半までね」
「そんなに早く? いいの?」
 ごまかすため、自分の使っていたカップをシンクに置いて大原を振り返った。

「いいのよ、手術なんだから。先生たちだって腹ごしらえするしてからがいいじゃない。充電してからじゃないと動けないでしょ」
 充電、という言葉にドキッとして、棚原をこっそり見てしまう。棚原もチラッと菜胡に視線を送った。

「それで菜胡、悪いけど外来が早く終わるなら、あたし明日は早退けしていいかしら。マルコのトリミングに行きたいのよ」
 マルコとは大原の飼うマルチーズの名前だ。真っ白でふわふわの毛をしていて、定期的にトリミングをしてもらい、仕上げにかわいいリボンを付けてもらう。かわいいでしょ、と毎回のようにトリミング後の写真を見せられるから、菜胡もいつしかマルコの様子を見るのが楽しみになっていた。

「いいですよ、片付けは任せてください。マルコさん今回は何色のリボンでしょうね」
 こういうことはこれが初めてではないから菜胡も勝手はわかっている。

「悪いわね、今度美味しいサンドイッチ買ってきてあげるね。マルコは何色でも似合うから困っちゃうわ、楽しみにしてて!」
 大原は機嫌よくコーヒーカップを洗い出した。マルコのトリマーは人気で、予約は争奪戦なのだと洗いながら話していたが、棚原と菜胡はろくに話も聞かず、視線を絡め合っていた。
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