夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな番外編〜

 翌日の外来は、大きな混乱も患者からの苦情もなく、滞りなく終わった。最後の患者を「お大事に」と見送った時刻は十一時半を過ぎた頃だった。

「ちょうどいいわね、ゆっくりお昼食べる時間あるでしょ?」
「あるよ。いつもこのくらいに終われれば楽なのになあ。毎日十時半シメにしようよ、それ以降にやってきた患者さんは、大原さんが適当に話し聞いといてよ」
 樫井が適当なことを言い出した。
 大原との付き合いが長い樫井は、たまにこうして大雑把な事を言って鬱憤晴らしをしている。うまくそれをかわしてくれるから、樫井も言うだけ言ってスッキリしているのだ。

「いやよ、外来が早く終わる日は、あたしも早退けするわ」
 がはは、と豪快に笑い声をあげた大原につられて、皆で声を出して笑う。こんな時間はとても良いな、と菜胡は思う。このゆるさを、棚原も気に入ってくれていたら嬉しい。

「それじゃ、先生たち手術がんばって。あたしは帰るから」
「え? 本当に帰っちゃうの? どうしたのよ」
 早退けする事を知らなかった樫井が驚いて声をかける。

「マルコ」
 長いこと大原と共に働いてきた樫井もまた、トリミング後のマルコの写真を何度も見せられていて、菜胡同様、マルコの用事を優先させる大原に慣れていた。働く大人としてそれでいいのかという疑問もあるが、それがここでは許されているのだ。

「さて、じゃあ僕らは腹ごしらえしてこよう。菜胡ちゃんおつかれさま〜」
「お疲れさまでした」
 帰り支度を整えた大原と共に、樫井たちが外来を出ていく。その背中に声をかければ、一旦出た棚原が戻ってきて、菜胡に耳打ちをした。

 ――お昼食べたらまた来るね。

 それから三十分ほど経った、十二時半前。まだ隣の外科では診察が続いていて、廊下はざわついている。順番を待つ患者の間を抜けて、青色のスクラブに着替えた棚原が外来に現れた。似合っているし、かっこいい。

「資料の確認をしたいからって抜けてきた」
 ニッと笑んで扉を閉めて、菜胡へ一直線に向かってくる。棚原の着ているスクラブは前ジッパーが少し降ろされていて、そこからちらちらと見える鎖骨やらが色っぽくて、菜胡には直視できない。うつむいて見ないようにしながら、棚原の腕の中にポスっとおさまった。力の加減によっては、はだけた肌が、額や頬に直接触れてしまう。なんとなくそれはいけない気もして、腕の中で身じろぎをしてみるものの、腰と背中に回っている腕の力が強くて動けない。
 トクトクと鼓動が耳に響いてくる。布一枚隔てた棚原の体温が頬に伝わってくる。

 ――これは……刺激が……!

「なこ」
 名を呼ばれて顔を上げる。頬に手のひらが添えられて、覆いかぶさるように唇が降りてきた。軽く触れた唇はすぐに離れた。いつもより軽めのキスに、菜胡は少しだけ違和感を覚えた。

「よし、充電できた。ありがと。……手術自体は何度も経験あるんだけど、それでもやっぱり少し緊張する。ここでは初めての手術だし……」
「先生……?」
 棚原は真面目な人だ。自信に満ちた目つき、態度、物言いをする。だから頼もしいし心強い。医師として必要な判断を下して行動できる。おそらく父親がそうであったからだろうと菜胡は想像したが、その棚原が弱音を吐いた。これは菜胡を突き動かすには十分すぎた。

 自分からフル充電する、と言ったのを思い出した。今しがたのキスでは全然足りない。目の前の好きな人が弱っているならば――。

「先生、待って……」
 カバンからリップクリームを取り出して自分の唇に塗った。次いで棚原の胸元を掴んで、背を屈めさせ、背伸びをして口付けた。棚原の乾いた唇に、菜胡の塗ったリップクリームが移るように、顔の角度を変えながら、押し付けた。押し付けながら、スクラブの前ジッパーを下げる。開いた前身頃をぐいっとはだけさせて、鎖骨の下あたりに唇を当てて、強く吸った。

「なっ、ななな?!」
 強く吸い付いてチュッと音を立てる。「んっ」と棚原が小さな声を漏らした。

 これで棚原が元気になるとは思えないが、身体が動いていた。

 異性の肌にキスをするなど初めてではしたないと思われるかもしれないし、流石にやって恥ずかしかった。恋人でもないのにこんなことして、これが正解かもわからないまま夢中で口をつけた。男性の肌に包まれた事も触れた事も無いが、"抱かれる"という事は互いの素肌が密着するわけで……菜胡はその先の想像を少しだけしてみた。

 ――先生なら、私……。

「……痕ついた……フル充電完了です。先生、がんばって」
 一度では成功できず、何度目かの強い吸い付きでようやく赤い鬱血痕ができた。満足げに微笑んでジッパーを元に戻し顔を上げれば、棚原は顔を手で覆って天井を仰いでいた。

「せ、先生?」
「なこ……いま何したの……こんなことっ、いつ覚えたの……!」
 空いている方の腕は、菜胡の肩に回された。

「あの……最近読んだ漫画にあって……ダメ、でしたか」
 少し前、少女漫画にほんの少し大人な描写が含まれる漫画を読んだ。付き合ってはいないが仲の良い男女が主人公で、事後、眠る女性のうなじに男性がキスマークを付けていたのだ。独占欲、所有欲、だとか作中では色々と語られていて、それを思い出してのことだった。

「す、すみませ――、手術の前にこんなっ」
 今やらなくても良かったが、このスクラブ姿の棚原はいつもより色気があって、もし看護師に言い寄られでもしたら……他の誰かがこの色気にヤラれたら……と思ってしまったのだ。だから、キスマークを付ける相手がいるのだと匂わせたかった。これは菜胡のわがままで傲慢な気持ちに他ならない。
 棚原から好きだと言われたわけではないが、好きでもない相手に何度もキスはできないと思うから、自分のキスマークで喜んでくれたら……そんな内面を持つ自分にも、同時に気がついてしまった。

「……じゃない……」
「え?」
「ダメじゃない! がんばる、超がんばる! 終わったらまた来るから! 菜胡が帰る前に終わるから!」
 菜胡を力一杯抱きしめて、テンションの上がった棚原は、まさしくフル充電できた様子で意気揚々と外来を後にした。
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