夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな番外編〜

 時刻は十七時近く。手術は三時間ほどで終わると聞いている。

「もう終わって落ちついてる頃かな」
 帰る前に来ると言っていたが、流石に術後の患者さんがいたらうつつを抜かしている場合じゃないだろうことくらいは、菜胡にもわかる。だから、今日は来ないと決めつけて、棚原を待たずに帰る事にした。明日になれば外来で会えるのだ、寂しくなんかない。

 そうして帰り支度を始めた頃、廊下から足音が聞こえてきた。樫井ではなく、大原のでもない。その足音に、胸が高鳴った。

 菜胡の名を呼びながら入って来た足音の主は、診察室内の一番奥、荷物を置いている棚の前にいる菜胡を見つけると大股で近づいてきた。

 腰と背中に腕を回し、背を屈めて菜胡の肩口に顎を乗せて大きく息を吐く。

「はー、菜胡のフル充電でがんばれた……ありがとう」
 菜胡渾身の、フル充電はうまくいった。

「お疲れさまでした、電池、保って良かったです」
 その背中に腕を回そうとした時、身体がふわりと浮いた。診察台に腰掛けた棚原が、菜胡をその膝に乗せたのだ。

「手術はうまくいったよ。出血も多くなかったし。週明けには荷重を開始できるかな。今日は大原さんが消灯まで付き添ってくれるって」
 南川と大原は家が近く付き合いがある。ひとり暮らしの南川は何かと大原を頼っており、大原のほうも子供をかわいがってくれている南川を、親戚のおじさんのように気にかけていた。その大川が付き添うというのだから心強いだろう。

「そうだ、これあげる」
 ポケットをまさぐって、白くて三角の物体を取り出した。

「これなんですか?」
 手のひらに乗せられた物体をしげしげと見つめる。それはとても硬くて、真っ白で、やや歪な三角形をしていた。側面は黒く塗りつぶされていて、おそらく"おにぎり"なのだろうかと察した。

「骨セメントで作ったおにぎり」
 棚原が得意気に笑んだ。

 手術が終わり、病室へ帰るだけの段階になった頃、片付けをしている看護師が手に持っていた余った骨セメントをもらって、急いで成形したのだという。海苔を模して、黒のペンを使い四角形に塗りつぶしたと話してくれた。その様子を想像するとかわいいやらおかしいやらで、菜胡は笑ってしまった。

「なに笑って〜?」
「や、だって、なんか、かわい……ふふ」
「かわいいって、なんだそれ」
 棚原が菜胡の脇腹をくすぐる。身をよじって笑い、腕の中から抜け出て逃げるものの、狭い診察室だ。すぐに棚原の腕に捉われてしまった。壁に背中を押し付けられて、骨セメントのおにぎりを握っている手を掴まれる。
 
 顔を覗き込んでくる棚原の目が、頬が、心なしか熱を帯びているように見えて、菜胡は目が離せなくなった。
 中途半端に降ろされたスクラブの襟元から見える、自分がつけたキスマーク。そこを見つめていると、唇が親指で撫でられた。やさしく弾力を確かめるかのように触れるその撫で方はとても官能的で、棚原の目を見つめた。

 ゆっくり降りてくる唇が「菜胡」と小さく名を呼んだ。だが、それに返す声は終いまで出させてもらえなかった。出すはずの声は吐息へと変わり、吸い寄せられるように唇が重なった。

「ん……、せんせ……」
 厚みのある舌が菜胡の口内に差し入れられて、歯列をなぞる。縮こまった舌を絡め取られて、互いの唾液が混じり合い、口の端から溢れ出した。

「は……なこ、かわいい……」
 唇は菜胡のそれと重なって舌を絡ませあいながら、菜胡の白衣の前ボタンを外していて、襟元は引き摺り下ろされて左肩がむき出しになってしまった。同時にブラの肩紐も下ろされて、左の乳房が半分ほどまろび出る。口づけで身体中が熱を帯びていたから、そのむき出しの左肩から胸にかけてが涼しく感じたのも束の間。すぐに熱い口づけが、首すじから鎖骨に下りてきた。キスの雨を降らしながら、時折強く吸い上げては、赤い花の跡を付けていく。

「あっ、ん……っ!」
「……フル充電のお返し」
 いじわるそうに言って、棚原はまろび出た左の乳房に口を当てる。位置を変えて二度ほど乳房に強い刺激を覚えた。

「俺の証ついた」
「先生のばか……えっち」
 菜胡の乱れた白衣は棚原が元に戻してやり、診察台に並んで腰掛ける。肩を寄せ合って、指を絡めて手を繋ぐ。そうして互いの存在を感じるだけの時間が過ぎていった。

 トクトク……。まだ鼓動が忙しい。

 ――あのまま、先生と最後まで……。

 だが、それはだめだともう一人の菜胡が引き留めた。棚原とこれ以上深く関係を結んではならない。

 キスよりも先を経験したいとは思っている。それはもちろん好きな人とだ。好きな人から求められて初めて成立すると思うから、いつかは……と期待もしている。だけど、それは棚原に求めてはいけない。一時の快楽欲しさに、彼の平穏を狂わせてはならない。だから、この気持ちは外に出したらいけないものだ。態度から伝わってしまっているとしても、声に出さなければ、まだ戻れる。菜胡はそう思っていた。

「……菜胡はもう帰れるの?」
 時計を観れば、十八時近くなっていた。

「はい。先生は?」
「俺はもう少し様子を見たいから残るよ。でも遅くはならないうちに帰る。大原さんがきっとまだいるから、菜胡は帰ったって伝えとく」
 顔を見合わせておでこ同士をコツンを当てる。

「菜胡と離れたくない……」

 ――先生……好き……。

「先生……」
「どした?」
「帰る前に、お膝に乗せて?」
「どした、急に甘えたで」
 おいで、と手を菜胡の腰に添えて、自身の膝に乗せてくれる。隣同士で座るよりも顔が近づいた。

「これでいいか?」
 こくん、と頷いて、棚原の首に腕を回して抱きついた。肩口に顔を埋める。

「どうした……」
「ん――このまま、も少し……いいですか……」

 ――今だけ、私だけの棚原紫苑でいて。

 言い様のない切なさに襲われて、胸が締め付けられた。

 何回キスをしても、どれほど強く抱きしめあっても、腰に回されている棚原の腕の温かさを知っていても、キスマークをつけられても、一歩病院を出れば、そして家に帰りつけば、そこには愛し合って結婚に至った唯一無二の存在である『妻』がいるのだ。もしかしたらお腹に子供が宿っているかもしれない。

 そんな真っ当な幸せを手にしている人を好きになってはいけない。そんな人との深い関係を願ったりしてはいけないのだ。

 自宅に帰り着く頃には、棚原の頭の中からおそらく自分の事は消える。そう考えれば考えるほど胸が苦しくなった。

 棚原を独り占めしたい。今だけは、どうか、と思わずにはいられなかった。

 たった一晩離れるだけで明日にはまた会える。それでも、なんとなく心が寂しくて、棚原の今の熱を身体で覚えておきたかった。全てを手にできないのなら、今だけでも棚原が欲しかった。時間の許す限り、独り占めしたかった。

「ん」
 菜胡の、抱きつく腕の強さから、何かを察した棚原は、菜胡を抱えなおした。

 棚原の院内PHSが静寂を破るまで、整形外科外来は二人きりの孤島となった。

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