記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
束の間の幸せ
その後も、ディートリヒとカトリーナは二人仲良く過ごした。
あまりにも二人が仲良い為、使用人達は温かく見守った。
ディートリヒは、カトリーナにこれでもか、と愛情を注いだ。
仕事が終われば真っ先に帰宅し、出迎えた妻に口付ける。
以前のディートリヒは仕事に打ち込んでいた為夜遅くの帰宅がほとんどだった。
結婚前と後との変わりように、使用人の誰もが戸惑ったが次第に慣れて今では皆が夫婦を祝福し支えていた。
「ほんっと、お二人仲良くて羨ましいわぁ」
「旦那様もずーっと奥様に張り付いてらっしゃるものねぇ」
「あー、いいなぁ。私もお二人みたいに愛し愛される結婚がしたいわぁ」
メイド達はきゃいきゃい言いながら洗濯をする。
そんな彼女達を呆れ顔で嘆息しながらも、まとめ役である侍女長は仲良く手を繋いで庭を散歩する夫婦に優しい眼差しを送った。
家を取り仕切る執事も、結婚当夜の事を思い出す。
『王太子の命令で婚姻させられた』
主の言葉に王宮に付き添っていた侍従を始め集まった使用人達が息を飲んだ。
『彼女……カトリーナ嬢は記憶が無い。とても心細いと思うから、みな良くしてやってくれ』
そう言うなりがばりと頭を下げられ、使用人達は一斉に慌てた。
仕事一筋の主が、女性を、しかも絶世の美女を横抱きにして連れ帰った事が信じられなかったのに、その女性を慮って頭を下げる主を見て、誰も嫌と言わず、気を引き締めた。
何より主の、その女性を見る時の目が優しく穏やかである事から執事はある予感がしていた。
だから精いっぱい奥方に尽くそうと決心したのである。
ちなみに、初夜にカトリーナが知識を持っていたのは侍女からの入れ知恵だった。
使用人を集めて『カトリーナには記憶が無い』と説明はしたが、湯浴み担当の侍女はその場にいなかった。
その時に侍女からそういう事になるだろうと説明されたらしい。その事を知ってディートリヒは脱力はしたが怒る気にはなれなかった。
最終的に理性を飛ばしたのは自身の弱さだと思ったからだ。
それに、こんなハプニングでも無ければ結ばれなかっただろう、と複雑な心境だった。
ディートリヒは休日もカトリーナに寄り添っていた。
記憶を取り戻す方法を探りながらも、時折寂しそうにする。
そんな時、カトリーナは決まってディートリヒを抱き締めるのだ。
「こうして包まれれば少しは安心しませんか?」
はにかみながらぎゅっと。
ディートリヒからすれば弱い力ではあるが、理性を飛ばすには充分な力だった。
ある日、二人は庭で散歩をしていた。
カトリーナの足も随分良くなり、運動兼ねて散歩する事が増えた。
ディートリヒとしては横抱きできる理由が無くなるのは残念だったが、代わりに手を繋ぐ事ができた為これもまた良しとした。
ふと、きれいに咲いた花の前でカトリーナは立ち止まる。
「以前の私は、どんな花が好きだったのでしょう……」
ディートリヒは答えられなかった。
今まで接点が無かったから仕方無い。
カトリーナが何が好きで、何が嫌いか、どんな事に興味があり、どんな物に心を動かすのか。
知りたくても知れなかった。
唯一、嫌いなものは醜い傷がある自分だ、などとは言えない。
「……これから、好きな花を見つけるのも良いだろう」
「……そうね。この花なんかどうかしら」
花壇に植えられた白い花。
カトリーナに指されたその花を手折り、ディートリヒが妻の髪に差すと、柔らかく笑った。
「よく似合っている」
「ありがとうございます……」
それは、紛れもない幸せの時間だった。
夜は毎晩妻を腕に抱いた。
何度も何度も、丁寧に愛した。
何度も愛を囁き、睦み合った。
夜毎応えてくれる妻に、ディートリヒは自分でも呆れるくらい欲情した。
こんな自分に惚れてくれているわけないと言い聞かせながらも受け入れてくれる妻を手放せなくなるくらいには溺れていた。
このまま記憶が戻らなければ。
何度もそう思った。
オールディス公爵家からは取り急ぎカトリーナの父親であるオールディス公爵からの婚姻の了承が届けられた。陛下と視察から戻るのはまだ先になると言う。
戻って来たら連れ戻されるだろうか。
公爵からは殴られる事も覚悟しておかなければ、と思った。
薄氷を踏むような、いつ壊れてしまうかもしれない頼りない毎日が幸せだった。
「だんなさま」
カトリーナが綻ぶ笑顔で呼ぶ。
『まぁ……なんて醜いの』
記憶の中のカトリーナが侮蔑の眼差しを送る。
以前の彼女が重なり、頭を振る。
(このまま、記憶が戻らなければ)
願ってはいけないのは分かっている。
分かっているが、ままならないものだった。
「……?だんなさま、どうなさいました?」
今にも泣き出しそうなディートリヒに膝枕をしながら、カトリーナは心配そうに尋ねた。
「いや……幸せだな、と思っただけだよ」
妻の頬を撫でる。
カトリーナは戸惑いながら、夫の手の温もりを享受する。
穏やかに、優しく。
二人の仲は誰が見ても愛し合う夫婦にしか見えなかった。
──そんな幸せな毎日は、一ヶ月ももたなかった。
薄氷は割れ、砂上の楼閣が崩れ去る。
その夜、夫婦の寝室のベッドに二人で横たわっていた。
いつものように妻を愛していると、時折妻が眉根をしかめ、顔を強張らせ、信じられないというような表情をしている。
「今日はやめておくか?」
「ええ……すみません……」
「流石に毎晩だったし、たまには良いさ」
妻の額に口付け、その日は腕に抱いて眠るだけにした。それだけでも満たされた。
カトリーナは自分の中にある変化に気付いていた。
思い出してはいけないもの。
思い出せば今が崩れてしまう予感。
漠然とした不安で眠りは浅い。
この腕の温もりになぜか違和感を覚える。
幸せなはずなのに、何かが拒絶する。
『ドウシテアナタガ』
言いようの無い怒りが、絶望が襲って来ている気がした。
そんな感情を持つなど今のカトリーナには考えられない。
思わず隣で眠る夫の胸に縋り付くと、眠っているはずの夫の腕が背中に回る。
安心感と、……拒絶。
(こわい……、どうして……)
結局、眠りについたのは明け方近くになってからだった。