記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
カトリーナの生い立ち
カトリーナ・オールディス公爵令嬢は、孤独な女性だった。
父アドルフはアーレンス王国の宰相として常に多忙である。彼と国王ユリウスは学園時代からの親友で、王妃フローラと共に常に行動を共にしていた。
学園時代に後の妻となるマリアンヌと出逢い恋に落ち、恋愛結婚をした。
マリアンヌはフローラの親友でもあった。
だがマリアンヌは身体が弱く、子どもを設ける事はやめておこうと相談し、結婚当初は二人仲睦まじく暮らしていたのだ。
その生活に変化が訪れたのは、フローラの懐妊からだった。
本心は愛する人との間に子が欲しかったマリアンヌはアドルフに懇願した。
アドルフは妻を気遣い反対していたが、やがて根負けして授かったのがカトリーナであった。
産後マリアンヌの体調は思わしくなく、アドルフは後悔しそうになったがあまりにも妻が嬉しそうな顔で娘を可愛がっていたので次第に受入れていったのだった。
『カトリーナは幸せになるのよ。愛しているわ、私の可愛い娘』
マリアンヌは何度も娘に伝える。
まるで己の生命を託すように。
その後カトリーナの成長を見守りたい一心でマリアンヌの体調は回復していき、親子三人仲睦まじく暮らしていた。
そんなオールディス公爵家に、魔の手は忍び寄る。
カトリーナが三歳の年、アーレンス王国を病が襲う。
平民の間から徐々に出だしたそれは、出入りの業者などから貴族にも流行り、とうとう国王も病に倒れた。
医者不足、薬不足で国は荒れた。
当時王太子だったユリウス夫妻をはじめ、宰相のアドルフも王城に泊まりきりになった。
時折着替えを取りに帰るが、屋敷内には入らない。病をマリアンヌに感染さない為というのもあった。
だから、家に帰っていない間、マリアンヌがどんな状況か、アドルフは把握できていなかった。
その後国王が崩御し、ユリウスがその座を引き継ぎ、アドルフも宰相の筆頭となった。
しばらくして病は沈静化し、細々した後処理をしてから長の休暇を取ろうと披露した頭で考え始めた頃、公爵家よりマリアンヌ危篤の知らせが届いた。
転がるように帰宅したアドルフが見たのは今にも生命の灯火が消えそうな妻の姿だった。
流行り病にはかからなかったが、ちょっとした風邪を引き、医者不足から受診を遠慮したマリアンヌは拗らせてしまったのだ。
その後看病の甲斐無くマリアンヌは眠るように息を引き取った。
彼女を深く愛していたアドルフは、公爵邸に妻が居ない事に絶望し、次第に帰宅する事が無くなってしまった。
その間娘のカトリーナは使用人たちはいたけれど、母に死なれ父に放置され幼な心に孤独を募らせた。
娘を屋敷に残したまま王城に寝泊まりする親友を見かねた国王ユリウスは、カトリーナを王城に呼び寄せた。少しでも父と一緒にいられるようにと。
だが国王が一臣下の子どもを呼び付けすぎるのは良くないと、口実を作る事にした。
それがデーヴィドとの婚約だった。
婚約が結ばれるまでの約二年間、アドルフは妻がいない現実を受けとめきれず仕事に打ち込んでいたが、ふと我に返った時カトリーナの寂しげな表情が目に映り罪悪感にかられた。
娘に謝り、これからは愛情をかけようとしたが
カトリーナは、王子妃教育の名目で王城に通うようになり二人はすれ違う生活。
結局あまり顔を合わせる事もできず、たまに顔を合わせても父親からの小言ばかり。
次第に寂しさと孤独を晴らすようにカトリーナは我儘になっていった。
公爵家令嬢ゆえ窘める者がいない。
それでも婚約者であるデーヴィドの前でだけは本来の素直な性格が出てはいたが、デーヴィドがシャーロットと出逢い彼女に傾倒していくにつれ攻撃的になっていった。
母は亡くなった。
父は多忙で会わない。
婚約者は他の女性に懸想する。
『私は誰からも愛されない』
それがカトリーナの心を凍らせていく。
令嬢を集めてのお茶会は、王太子の婚約者としての妬みを集める。
嫌味、妬み、嫉みを受けても微笑みを絶やしてはいけない。
──未来の王妃たる者、何事にも動じてはいけません。
カトリーナを孤独から救おうと結ばれた婚約は、皮肉にもカトリーナを孤独へと導いていく。
表面上は優しく見える友人たち。
実際には嫌味を隠さないものだった。
唯一の拠り所であるデーヴィドは、シャーロットに夢中になっていく。
それでもカトリーナは我慢していた。
例え王太子の執務を代行している間に、デーヴィドがシャーロットと執務室奥にあるベッドでナニカをしていても。
この座を失ったら、もう、カトリーナに行く場所が無かったから。
愛しているわけではなかった。
愛されていないと思っているカトリーナには、愛が何か分からなかった。
それでも仲睦まじくしている国王夫妻を見て、羨ましい気持ちはあった為、デーヴィドが裏切っているという事は理解し、傷付きはしていたのだ。
王城の片隅で、誰にも見られないように弱音を吐く。泣くまいと上を向く。
本当ならば、みっともなくても叫びたかった。
『ダレカ、タスケテ、──ワタシヲアイシテ』
これ以上、居場所を失いたくなかった。
『ワタシノイバショヲトラナイデ』
心を凍らせ、次第に攻撃的になっていく。
誰かを見下し、それで心の安寧を取る。
それが悪循環に陥る罠だとしても、カトリーナは止められなかった。
公爵家令嬢、父親は国王の親友で王国の宰相。そして王太子の婚約者で未来の王妃。
誰も、カトリーナに逆らえない。
誰もが、腫物扱いをする。
それがまた、カトリーナを孤独にする。
そして、唯一の拠り所であった婚約者から言い渡された婚約破棄。
酷く頭を打ち付けたわけではないカトリーナの記憶が失われたのは、彼女の心が限界を迎えていたのかもしれない。
そんな彼女の心に、ディートリヒの優しさはしみ渡る。
自分を嫌っている相手に対し、真摯に向き合い、寄り添う彼にカトリーナの中の何かが疼いた。
思い出すのは慈しむような翠色の眼差し。
『愛しているんだ』
記憶が戻った時に聞いた、切なく優しい声音を思い出し、カトリーナは一人枕に顔を埋めた。