記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
「ただの嫉妬だ」
「王太子殿下、いつから畜生にも劣る存在になられたか」
ディートリヒはカトリーナを後ろ手に守りつつデーヴィドを牽制した。
「貴様!俺を誰だと思っている!こんな事をして許されると思うのか!?」
投げ飛ばされたデーヴィドは、床に座り込んだまま叫んだ。
だが大切な妻に害をなした相手に対し、ディートリヒは冷たく見下ろした。
「許さずとも結構。それより我が妻に謝罪してもらおうか」
ディートリヒはキレていた。
妻を侮辱されたのだ。未遂ではあるが陵辱されかけた。相手が王太子であろうが関係無い。自分の大事な者を傷つけた、目の前の汚物をどう処理しようか頭の中で考えを巡らせる。
だが相手は腐っても王太子。それにカトリーナの前で残酷な事もしたくない。その思いだけで何とか理性を繋いでいた。
「だっ、誰か!この者を捕らえよ!」
デーヴィドが叫ぶが、誰も動かない。
いや、動けないのだ。
相手は今、『醜悪伯爵』では無い。
『救国の英雄』や『王国の盾』として名を馳せた騎士団の副団長である。
独りで敵国の将軍を討ち取った者。
戦場での命のやり取りを知らない王太子付きの護衛など、ディートリヒの放つ気迫に押されて動けるはずが無かった。
「なぜだ!なぜ誰も動かぬ!?」
デーヴィドは座り込んだまま叫ぶが、部屋全体がディートリヒの殺気に気圧されていた。
「……殿下、我が妻に謝罪を」
「ひぃっ!?」
ディートリヒはなおもデーヴィドに迫った。
本来ならデーヴィドは王太子で、この場で一番身分が高い。だが支配しているのは紛れもなくディートリヒだ。
デーヴィドはもはや腰を抜かして動けない。
「立てませぬか?手をお貸ししましょうか」
上から獲物を見下ろす救国の英雄はなおも威圧感を増していく。
デーヴィドは無様に四つ這いに床を這い、ベッドで怯えるカトリーナに近寄り頭を下げた。
「す、すまなかった!このとおりだ!!」
床に額を擦り付け、謝罪を口にする元婚約者を見てカトリーナは侮蔑で目を細めた。
「王太子殿下とは言え二度目はありません」
言うなり身なりを整え、ベッドから降りる。
すれ違い様、デーヴィドの表情をチラリと見て、すぐに視線を戻した。
「……だんなさま、ありがとうございます」
未だ王太子から守る盾となりながら、ディートリヒは場を支配していたが、カトリーナに声を掛けられ気を緩めた。
自身の腕をそっと掴む、か細い手の震えに気付いたからだ。
「見習い騎士の部下から聞いて来てよかったよ。どこか痛むか?」
「いえ……だんなさまが来てくださったので、もう痛みません」
安堵からカトリーナが笑みを溢すと、ディートリヒも口元が自然と緩み、周りから溜息が漏れた。
「少し赤くなっているな。行こう。騎士団の詰所の救護室で手当てしよう」
辺りにほのぼのした空気が流れ、落着したかに見えたが。
ユラリと立ち上がった男が、ディートリヒの背中を向けて走って来る。
だが。
「へぶっ!?」
ディートリヒは振り返りもせずに無表情で裏拳をお見舞いした。
その男──デーヴィドは、鼻柱が折れたのか血を流し、歯も何本か折れたようで口を押さえている。
「二度目は無いと申し上げたはずですが?あなたは余程言葉が理解できない御方らしい」
「んがっ!ひはばぁ!!」
「これ以上私たちに何かするおつもりなら、あなたに手袋を投げ我が剣を抜かなくてはなりませんが、よろしいか?」
『手袋を投げる』──即ち決闘を申し込むと言う事だ。
参加するのはデーヴィドの近衛たち。彼らからすれば救国の英雄などと決闘など何よりも断りたいものだった。
彼らだって生命は惜しい。同じ騎士としてディートリヒ・ランゲだけは敵に回してはいけないと誰もが感じていた。
そのような者から手袋を投げられるなどと考えただけでも震え上がる。
だから皆思いは一つ。『許可するな』と心の中で必死に祈った。
ディートリヒが今までに無いくらいの圧力で睨めば、デーヴィドは鼻と口を押さえたまま顔を俯け、これ以上の抵抗はできないと悟ったのか腰を抜かしおとなしくなった。
この場にいる誰もが彼に抵抗はおろか指一つ動かす事ができない。
皆が己の恐怖心と戦う事しかできず、生唾を飲み込んだ。
その様子を一瞥し、ディートリヒはカトリーナを横抱きにして執務室をあとにした。
「お、下ろして下さい!歩けますから」
「大人しくしてくれ。暴れると落としてしまう」
厚い胸板を叩くが淑女の小さな手ではびくともしない。
それに落としてしまうと言われればもうこれ以上の抵抗はやめ、そのまま顔を胸板に埋めるようにしがみついた。
ディートリヒは足早に急ぐ。
歩く度妻から香る匂いに鼓動を逸らせながら。
その移り香を不快に思いながら。
何よりも一刻も早く妻の手当をしたかったのだ。
騎士団の詰め所の救護室で、カトリーナの腕の手当をする。
デーヴィドが力任せに引っ張っていたので少し赤くなっていた。
「あのクソバカ王太子が……。部下が呑気に知らせてくれなかったらと思うと……」
腕に冷やす効果のある薬を塗りながら苦々しくディートリヒが話す。
彼の指の熱と、薬の冷たさにカトリーナの鼓動は早くなった。
「あなたが来てくださって良かったです。でなければ今頃は……」
思い出してぶるりと震える。
ディートリヒが来るのがもう少し遅かったら、と考えるだけで鳥肌が立った。
婚約時代に触れられた事もあったはずなのに。
その温もりに安心していた時もあったのに。
「……王太子殿下から呼び出しがあったなら言ってくれたら良かったのに」
手当てを終え、カトリーナの手を握ったままディートリヒは彼女の瞳を見た。
「……あなたの手を煩わせたくなくて……」
射抜くような視線を向けられ、カトリーナは居心地悪くするが、先程のデーヴィドに向けるような威圧感は無く。
むしろ心配と愛情を孕み、熱情が込められている。そんな目線にいたたまれず、思わず視線を反らした。
「……とにかく間に合って良かった。何かあれば、俺は王太子の命を奪っていたかもしれん」
物騒な一言にカトリーナは目をぱちくりとする。
「ただの嫉妬だ。気にするな」
頭にぽん、と優しく手を乗せられ、ディートリヒは救護室を出て行った。
(ただの嫉妬って、それは……)
その先を考えながら、夫の手が触れた箇所を触ってみると、心無しかその場所が熱く感じる。
先程の言葉を思い返し、カトリーナは自身の顔に熱が集まるのを感じていた。