記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
記憶喪失のだんなさま
その日のディートリヒは、いつもより様子がおかしかった。
いつもなら妻を片時も離したくないと言わんばかりなのに、この日は軽く頬に口付けただけで仕事に行ってしまった。
尋常ならざる雰囲気に、カトリーナは一瞬「まさか……浮気……!?」と脳裏に過ぎったが、すぐにその考えはたち消えた。
ディートリヒは嘘が付けない。隠し事ができないのだ。
自分に不利であろうが、彼はカトリーナだけは裏切らない。
──そんな人が浮気をするわけがないし、もしそうだとしてもやむにやまれぬ事情があるのだろうとカトリーナは思った。
勿論浮気などされないように、自身を磨かなければと気合を入れた。
その日の午後になってすぐに、ディートリヒは帰宅した。……騎士団長と部下に支えられて。
「朝から様子がおかしいな、と思っていたんだが……、やっぱりおかしかった」
騎士団長が口を開く。カトリーナはごくりと息を飲んだ。
団長の隣で顔色悪くしていた部下の騎士が促されて言葉を繋いだ。
「副団長が、僕の剣を避けれなかったんです」
話を聞いていた執事のハリーが目を丸くした。
「それで副団長の頭にまともに当たってしまって」
カトリーナがディートリヒをみやると、戸惑ったような彼と目が合った。みるみるうちにディートリヒの顔が赤くなる。
その様子にいやな予感がした。
「副団長は記憶喪失になってしまったようで……」
「……っ」
言葉を失ったカトリーナに、ディートリヒは申し訳無さそうにした。
「記憶が戻るまでは騎士団休養で構わないから。たまにはゆっくり療養させてやってくれ」
騎士団長の言葉に、カトリーナは小さく頷くしかできなかった。
「すみません、伯爵夫人様……」
涙目で頭を下げる部下に、カトリーナは目をやり、一度伏せてからしっかりと見据えた。
(私がしっかりしなきゃ)
「騎士団長様、と……部下の方かしら?
ディートリヒ様を運んで来て下さり感謝を申し上げます。お言葉に甘えて療養させて頂きますわ」
騎士団長としきりに頭を下げる部下の騎士を丁重にお見送りし、カトリーナは談話室でディートリヒと向き合っていた。
「記憶が無くなったそうですね……」
「ああ、……すまない」
「いえ。えっと、どこまで覚えてらっしゃいますか?」
「自分の名前はなんとか……。あとは日常の事なんかは覚えてはいるが……」
言い淀むディートリヒの姿がいつもより小さく見えた。だが、その瞳はカトリーナをいつものように捉えて離さない。
「すまないが、君は……」
「申し遅れました。私はカトリーナと申します。あなたの妻ですわ」
その言葉にディートリヒは目を見開き、破顔した。
「そ、そうか。こんな綺麗な奥さんがいるのか。……それを私は忘れているのか。なんと勿体無い」
喜びも束の間、捨てられた子犬のように頼りなげな夫の姿は、カトリーナにとって新鮮であった。
まじまじと見ていると、ディートリヒはカトリーナのお腹をじっと見てきた。
「失礼だが……そのお腹は……」
「はい……。あなたとの子ですわ」
記憶を失った夫からすれば急に子どもまでいると言えばショックを受けるかな、とは思ったが真実を伝えない訳にも行かず、ありのままを伝えた。
すると、ディートリヒは口元に手をやり顔が緩み出した。
「そ、そうか……。私はもうすぐ父親になるのだな。……そうか」
必死に押さえてはいるが、口元は緩んでしまうようで、ディートリヒは顔を引き攣らせていた。
その様子を見て、カトリーナは思わず吹き出してしまった。
「そんなにおかしいかな?」
「ふふっ、いえ、あなたの記憶が無くなってもいつもと変わりないものだから、つい。……ふふふっ」
本当に記憶喪失なのだろうかと疑問に思うくらい、ディートリヒは変わらない。
元々がそうなのか、いつでも朗らかで前向きで。
そんな彼も釣られて笑みを浮かべた。
「記憶を失う前の私は幸せ者なのだな。こうして笑顔でいてくれる妻がいて、もうすぐ子どもも産まれる。
……何としても思い出したいな」
ディートリヒは頭を抱えてうーむ、と唸り出した。
「あまり無理なさらずに。私が着いていますからね」
不安にならないように、カトリーナは夫の手を握った。『大丈夫、何も心配いらない』と願いを込めて。
「ありがとう。……よし、早速もう一度頭を打ってみよう」
「えっ」
「以前調べたことがあるんだ。同じ刺激を与えればいけるかもしれない」
そうと決まれば早速、とディートリヒは身近にあったテーブルを真剣に見た。
「ちょっとお待ち下さい!」
「な、なんだ?」
その先を予想ができたカトリーナは、慌ててディートリヒを止めた。狼狽えながら己の妻を見ると、目を座らせている。
「同じ刺激を与えるって、また頭を打ち付けるおつもりですか?」
「あ、ああ。記憶が戻るかもしれないだろう?」
「怪我するじゃないですか!あなたは考え無しの無鉄砲ですか!」
「す、すまない……」
ディートリヒはたじろぎながら、妻という女性の瞳を見ていた。
少しばかり潤んでいる瞳には、心配しているとか悲しみがある気がして自身のやろうとしていた事を反省した。
「私も記憶喪失になった事はあります。だから不安になるのは分かるつもりです。
焦らずにいきましょう。もし戻らなくてもまた最初から覚えれば良いのです」
その言葉は、ディートリヒの胸を打った。
確かに迷惑をかけた、とか妻子の事を忘れているのか、とか己の不甲斐なさに打ちのめされそうになっていたのだ。
だがそんな自分に妻という女性が光を差してくれた気がした。
「君は……美しいだけではなく、強く頼もしくあるのだな。君という素晴らしい女性を妻に迎えておきながら忘れてしまうなど情けない。
……だが、また最初から教えてくれるだろうか?」
ディートリヒは顔を赤らめて、妻の手を取った。
「ほ、褒めても何も出ませんわよ?
……仕方ありませんわ。私が最初から教えて差し上げます」
にっこりと笑うと、ディートリヒは眩しそうに目を細める。
「ありがとう。君は女神のようだな。優しくてたおやかで、淑やかだ。
その仕草も清廉されて綺麗で。ずっと見ていたいな……」
「あ、あの、だ、だんなさま?だ、大丈夫ですか?頭打ちました?」
顔を赤くし、次々と愛のこもった言葉が紡がれ、カトリーナはその口撃に思わず逃げたくなった。
心なしか自身も、夫も身体が熱い気がする。
次第にディートリヒの息遣いも荒くなってきた。
だんだんと夫の身体が近付き、唇に触れようとしてきたが……。
ディートリヒはそのままカトリーナの肩に顔を埋めた。
「……だ、だんなさま?なんだか身体が熱いですわ──っ!?
ちょ、ちょっと、ハリー!大変!侍医の方をお呼びして!」
「は、はい、ただいま!」
「だ、誰か、だんなさまをベッドにお運びして!すごく高い熱が出てますわ!」
それから使用人に手伝ってもらい、ディートリヒを寝室に運んだ。
「風邪ですかね。お薬出しておきますので。お大事になさいませ」
カトリーナは寝ている夫の顔を見て嘆息した。
朝、口付けが頬だけだったのは。
部下の剣を避けられなかったのは。
高熱があるのを隠していたからなのか、と納得いったのだ。
「あなたは騎士団に行きたいお子様ですか」
夫の顔の傷を撫でながらカトリーナは呟いた。
体調が悪いなら悪いと素直に言えば良いのに、と。
無理を押して訓練に出掛け、記憶喪失で帰って来るなど言語道断である。
「ディートリヒ様の愚か者……」
ピン、と弱く額を弾いて、カトリーナは久々に自室の寝室で寝る事にした。
翌朝。
ディートリヒの様子を見に来たカトリーナは、額に手をやり体温を確認した。
穏やかに寝息をたてる夫の熱は下がっているようで、その回復力に驚いた。
朝食の準備をしてもらおうと立ち上がると、不意に手を掴まれた。
「カトリーナ……?俺……は……」
「……えっ?」
昨日は確かに『私』と言っていたはずだ。カトリーナは鼓動が早くなるのを感じていた。
「……俺……は、訓練してて……、部下から」
ゆっくりと身体を起こしながら記憶を辿る。
ハッ、としてカトリーナを見やると、呆然としながらディートリヒを見ていて、全てを思い出した。
「俺は……記憶が抜けてしまっていたんだな」
「戻らない……かも、って」
次第にその瞳が潤んでくる。ディートリヒはお腹を気遣いながら、妻を抱き寄せた。
「忘れてしまってすまない。君との事を忘れるなんて、なんと勿体無い事をしたんだ……」
背中に回した腕に力が込められるのを感じ、カトリーナは安堵から涙をぽたりと溢した。
「もう、ホント……、ふふっ、変わらないのね、あなたは……ふっ……」
「そうだな……。何だか一日夢を見ていたような感じだな」
ディートリヒは、記憶喪失の間の事は全て覚えていた。
「私は……全く覚えていません。いつか、思い出せる時が来るのでしょうか」
記憶喪失中の事はカトリーナの中から消えてしまっている。
大切な初めての事も、ディートリヒの優しさの事も。それが彼女にとって唯一の引っ掛かる事でもある。
「君との……その、初めての夜の事は……すまない」
「覚えて無いのは悲しいですが、……これから沢山思い出を作れば良いのです。
その……今は、あれですが。また、夜も、ですね」
その先の事は流石に口にはできず、カトリーナは指を組み換え遊ばせた。だがディートリヒはしっかりと汲み取りカトリーナの額に口付けた。
「ありがとう。……君には敵わないな」
「光栄だわ。英雄に勝てるのは私だけですわね」
「違いないな」
そうして二人は微笑みあった。
かくして、ディートリヒはたった一日で記憶を取り戻した。
カトリーナが初めての夜を思い出せるのは……。
まだ先の話…………?