記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
騎士として、英雄として
結婚式の準備は着々と進んで行く。
だが、あと一ヶ月と迫った頃。
国境で不穏な動きがあるとの情報が入った。
数年前戦争した隣国が、再び侵略して来ようとしているらしい。
出入りの商人からその噂を聞き、ディートリヒに尋ねてみた。
「ああ、その情報は知っている。密偵からリーデルシュタイン辺境領方面から向かって来ていると聞いた」
リーデルシュタイン辺境領主は、国王ユリウスの従兄弟である。オールディス公爵も含め、旧知の仲でカトリーナも知らない仲では無い。
「行軍の中には、かつて俺が対峙した将軍の息子がいるらしい」
ディートリヒからの言葉に、カトリーナは息を飲み、一気に不安になった。
「将軍の……息子さん……。だ、大丈夫でしょうか……」
「心配しなくても良い。今の所は開戦回避で動いているから」
妻の胸中を思い、抱き締める。
カトリーナは、当時ディートリヒが死力を尽して戦い将軍を葬る事ができたその将軍にも、家族がいたと思うと何とも言い難い気持ちになった。
(できるならば、戦などしないでほしい……)
そんな願いが届く事も無く。
結婚式を一週間後に控えた日。
夜遅くに帰宅したディートリヒをカトリーナは迎えた。
その表情は硬く、何かを言いたいのに口にできない。そんな雰囲気を察知してどきりと胸が鳴る。
自室に下がった二人は、ベッドの上で向きあって座っていた。
「カトリーナ。よく聞いてほしい。耳にしてると思うが、隣国との戦が避けられないまでになった。俺達騎士団も出征する事になる」
その言葉にカトリーナはひゅっと息を飲んだ。
「出征は一ヶ月後だ」
カトリーナと結婚して、ディートリヒは出征した事が無かった。本来の職務を忘れるくらい平和だった。
遠征すら騎士団長からの配慮で近場以外無かった。尤も、副団長が出向く程の大きな事件も無く平和だったのもあるが。
だがこうして言われると、心臓が嫌な音を立てて。
いつの間にかカトリーナの瞳からは雫が溢れた。
それを見たディートリヒは、カトリーナを力強く抱き寄せる。
「すまない、カトリーナ。だが、分かってほしい」
何か言わなければ。
そう思いながら口を開けるが言葉にならず閉じるばかり。
笑って「行ってらっしゃい」と言わなければと思うのに、口から漏れるのは嗚咽のみ。
ともすれば「行かないで」と言いそうになるのを必死に堪える。
救国の英雄とて無敵ではない。
先の戦いでは顔に負傷したが、もしこれが致命傷になる場所だったら?
カトリーナは不安で仕方なかった。
泣き続けるカトリーナの背中をゆっくり擦りながら、ディートリヒは続ける。
「俺は騎士団の副団長だ。国を守る責務がある。……分かるね?」
ディートリヒの腕の中で微かに身動ぐ。
「カトリーナ。俺は必ず帰って来る。君とジークを置いて逝く事はしない」
愛する妻の頭を撫でながら、ディートリヒはゆっくりと言葉を紡いだ。
「可愛いお嫁さんと息子を守る為に俺は出征する。だから待っていてほしい」
カトリーナの頬を持ち、顔中に口付けると少しずつ涙が止まって行く。
「ごめ……なさい……。貴方の、仕事……。なのに。……取り乱して、しまぃ……ました」
「大丈夫だよ。君のそんな姿も愛している」
そう言って瞳に口付けを落とすと、カトリーナの涙は完全に止まった。
「あっ、あなたはっ、いつも、そんな事っ……」
顔を赤くして夫の胸を叩くがまるで手応えが無くて悔しい。
だがそれは彼が今回のような有事に備え日々鍛えている証拠でもあるのだ。
カトリーナは夫の胸に耳を当て、トクトクと鳴る心臓の音を聞きながらその温もりを享受していた。
「……本当ならば、俺も、避けられるならば避けたかった」
ディートリヒがぽつりと、呟いた。
「前回は何も失うものは無いと思っていた。
自分の代わりはいるから、と。
婚約者はいたが、早く帰らなければと思いながらも、特に自分を守ろうとは思わなかった」
カトリーナは顔を上げ、ディートリヒの顔を見た。その瞳は揺れ、葛藤が垣間見える。
「英雄と祀り上げられても、実態は生命を奪う者でもある。以前はそれを躊躇しなかったが……。
自分が愛する妻を、家族を持つと、敵の……背景を考えてしまう」
それは、おそらく英雄として生きてきたディートリヒの葛藤だった。
戦争の立役者と言えばそういう事だ。
強く優しい彼だからこそ、苦悩するのだろう、と。
最愛を得た今なら尚更。
敵にも同じく愛する者がいて、家族がいて。
だが、同情しては自分の命が脅かされるのだ。
戦場では綺麗事など通用しない。
やがてディートリヒは一度目を伏せ、開いた。
そして、カトリーナと視線を交わらせる。
その眼差しは、決意をした者が持つ強さがあった。
「だが、俺は君を守りたい。君と、この先も未来を歩みたい。
子どもも沢山欲しい。その為に、俺は……向かって来る敵には容赦しない」
ディートリヒの真剣な表情に、カトリーナはぞくりとした。
この人になら、狩られても良いと望んでしまった。
ディートリヒの頬を持ち、愛おしく感じるその顔の傷に口付ける。
「……必ず、帰って来て下さい」
「必ず、帰って来る」
「腕の一本になっても、必ず、帰って来て……」
「仲間に伝えておこう。……だが、俺は強いぞ?」
「どれくらいですか?……あ……」
カトリーナは以前見た訓練の風景を思い出していた。
執事に言われ、『忘れ物』と言う名のサンドイッチを届けた時。
数名に囲まれても汗一筋も無かった。
背後から襲われても振り返る事無くいなしていた。
言われてみれば王太子に襲われそうになった時も、振り返る事無く裏拳をお見舞いしていたな、と思い返せば「俺は強いぞ」というディートリヒの言葉がとても頼もしく聞こえた。
但し、熱を出さないように気を付けてほしいとも思った。
「だんなさまを、信じます」
「ああ。信じて待っていてくれ」
言いながら啄むような口付けを繰り返す。
「カトリーナ、〝だんなさま〟ではなく」
少し拗ねたように言う愛しい存在の重みを受けながら、カトリーナは耳元で名を呼んだ。