旦那様は甘えたい
改めまして、ご挨拶
「あ、お湯加減どうでした?」
ぺたり、ぺたりと水気を帯びた足音に気づいて振り向けば、濡れた髪を絶賛タオルで乾かし中なのだろう竜胆さまがひょっこりと渡り廊下から顔を出した。
その人間さながらの仕草になんだか呆気にとられてしまって、ジュワッ、と油が跳ね上がった所で私の意識はようやく戻る。
「ぬあっ!肉が焦げる!!」
慌てて菜箸を掴み黄金色の海を泳ぐ鶏肉の欠片をひっくり返しながら、裏面にも焦げ目がついていなかったことにホッと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「晩御飯もうすぐ出来ますから。あっ、勝手にあるもの使っちゃいましたけど、大丈夫でしたかね?と言うか私が作ったものを竜胆さまに食べて頂いていいものかと、今更ながらに後悔が…」
「だ、大丈夫だよ、気にしないで。俺もご相伴に与るし、お風呂も気持ちよかった、から」
「そ、ですか。なら良かった」
慌てて言葉を挟んでくれた竜胆さまにほっと笑顔を浮かべたのも束の間。ご飯が炊けた電子音に今度こそ呆気なく意識がそれて、今一度跳ね上がった高温の油が私の指先に直撃した。
「っ、あつ」
びくりと反射で体が引いて、それでも火だけは止めなくちゃと痛みのない左手でガスコンロのつまみを捻る。鶏肉が全て揚げ終わっていたことが不幸中の幸いか。焦がす心配はないと安堵しつつ油のはねた指先を見れば、普段よりも赤みを帯びたそこはぷっくりとミミズバレのように腫れ上がっている。
我ながら初歩的なヘマを…と渋い顔をしながら傷口を睨みつけていれば、不意に背後へ感じた気配にくるりと首を傾げてみる。
「…えっ」
見上げた先には苦悶の顔。眉をしかめた竜胆さまが、私を背後から覆い隠すような体勢でじっと傷口を見つめている。
「あ、の」
「…ゆび、かして」
えっ、と私の声が空気を震わせるよりも先に。やにわに伸びた彼の手が火傷の残る右手をとって、見とれるような仕草でその指を彼は己の口元に運ぶ。
ちゅ、と響いたのは可愛い音。熱を持った指先に触れた柔らかな感触と冷たい体温に、私ははたと瞬きをする。
「ん…っ、ちゅ。…うん、治った」
どこか満足気に笑った彼が、ほらと傷口一つなくなった私の人差し指を優しく撫でる。良かった、あとが残らなくて。なんて。心から嬉しそうなその声は、裏も表も無いように聞こえた。
しかしその間、私は終始無言を貫いている。何故かって?それは私の型落ちした脳ミソじゃ現状を処理するのに時間を要するから。
頭上ではきっと読み込み中とグルグルと丸い円が回っているだろうし、何時までも開けないページに現代人なら痺れを切らしているところだ。
しかし流石は妖様か。傷を治した摩訶不思議な力もさることながら、耐久力もずば抜けて高いらしい。
時にして五分。たっぷりと時間をかけてフリーズした私が復活するまで、彼は文句の一つもつけることなく、それこそど至近距離で私の言葉をじーっと待っていてくれたのだ。
「ちょっ!!!な、なんですか今のは!!てか顔!顔近っ!!」
「いや?」
「そういう問題じゃ…ってちょ、ちょっと待ってなんで抱きしめるんですか急に何事??」
「だって君、あったかい」
「何があったって????」
お風呂に入る前とは打って変わった態度に思わず目をみはる。だってさっきまでどちらかと言えば警戒心むき出しな野生動物みたいだったんだもの。こんな甘えたな犬猫、むしろ赤ちゃんみたいな態度をとられて戸惑わない訳が無い。
「竜胆さま本当にどうしたんですか?頭打った?たんこぶ…は、無さそう。そもそも妖って怪我します?」
「怪我はするけど、ちょっとやそっとじゃ傷にはならないし。俺、今頭なんかぶつけてないよ?」
「じゃあ何故そんな有様に…」
「ん…、だって君、俺のこと怖がったり、変な目で見てきたりしなかったから。今までの子と全然違う。俺のこと、ちゃんと竜胆って名前で呼んでくれた。やっぱり、君は特別だった」
「ええ?名前があるんだから、その名前で呼ぶのは普通なんじゃ…ぐえっ」
「ふつーじゃないよ。みんな妖って括りでしか俺を見てはくれないから。だから、君は特別」
「ちょ、分かったので腕の力緩めて…!」
いつの間にか正面を向いて抱き込まれた私は、玉のような胸板に押し付けられては呼吸を奪われている。これはすごい筋肉だ、なんて悠長に構えてる暇は無い。段々と近づき始めた死の気配。あわや三途の川に足一歩突っ込んだあたりでようやく竜胆さまは腕の力を抜いてくれて、代わりに猫の仔みたくまだ水気のある頭をグリグリと私の肩口に押し付けた。
「竜胆さま、このままじゃ風邪ひいちゃいますよ」
なだめるように髪をすけば、微かに不満の色を宿した黒曜の瞳が私を見据える。もっと撫でろと催促されているようでなんだか笑ってしまった。
「これぐらいじゃ風邪なんか引かないよ。人間とは違う」
「それでもやっぱり心配します。夜はまだ冷えることもあるし、もう少しでご飯の準備も全部終わりますから、その間に。ね?」
「…わかった」
分かりやすくぶすくれながらも身を引いてくれたことへお礼を告げて、炊き上がったご飯を程よく混ぜ、作り終わっていた味噌汁を温め直す間に副菜やメインの唐揚げを盛り付けていく。
炊事場の横に簡易的なダイニングテーブルみたいなものが設置されていたからひとまずそこに料理を並べて、そこでふと竜胆さまの食事は膳でお出しした方がいいのだろうかと周囲を探る。
しかしどこを探してもこれと言った食器類はなく、仕方なしに対面それぞれの椅子が並んだ卓上の上に二人分の食事を並べておいた。
「いい匂いする」
「あっ、竜胆さま。自室でいただくかなとも思ったんですけど、膳もお盆も見当たらなくて。一先ずこっちに並べちゃいました」
「…うん、これがいい。準備してくれてありがとう」
「いえいえ!それじゃ早速食べちゃいましょうか」
いただきます、と二人分の声が重なって。小さな食卓には微かな咀嚼と食器の立てる音だけが響く。
彼は初めから迷いなく唐揚げをひとつ摘んで、薄い唇をゆったりと開くと丸ごとぱくりと噛み付いた。
思ったよりも大きい口だなぁとぼんやり考えながら私も竜胆さまに続くように唐揚げへと箸を伸ばす。
適当にストックしてある食材の中から選んで料理をしたが、彼の舌にも合ってくれたようだ。ほんの少し緩んだ眦に笑って、舌の上に転がした衣に犬歯を突き立てる。
「すごいね。こんなに美味しいご飯は初めて食べた」
「そうなんですか?」
「うん。何時もは食材そのままだから」
「へえ、そのまま…あ?」
「生き物の肉って臭みがあるからあんまり得意じゃなかったけど、こんなふうに食べることもできるんだね」
「え、お腹壊しませんでした?」
「ふふ、壊さないよ。何回も言ってるでしょ、俺は人じゃないんだって」
くすくすと控えめに笑う竜胆さまに、そう言えば彼は自分とは違った生き物だったと今更ながらに実感する。
妖、妖と言われてはいたけれど、実際彼を目にしてしまえば人と違うところを探す方が難しいくらいに作りが似ている。
しかし言われてみれば確かに、さっき私の火傷を治したことなんかは紛れもなく妖としての力なんだろう。
「あの、お礼が遅れちゃったんですけど。さっきは火傷を治してくれてありがとうございました。あれも特別な力なんですかね?」
「あー、うん。そうだね。君にはまず、俺たち妖って生き物についてをもう少し説明した方が良さそう」
そう言って味噌汁のお椀を置いた彼は、どこか寂しげに目を伏せて力なく笑った。
ぺたり、ぺたりと水気を帯びた足音に気づいて振り向けば、濡れた髪を絶賛タオルで乾かし中なのだろう竜胆さまがひょっこりと渡り廊下から顔を出した。
その人間さながらの仕草になんだか呆気にとられてしまって、ジュワッ、と油が跳ね上がった所で私の意識はようやく戻る。
「ぬあっ!肉が焦げる!!」
慌てて菜箸を掴み黄金色の海を泳ぐ鶏肉の欠片をひっくり返しながら、裏面にも焦げ目がついていなかったことにホッと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「晩御飯もうすぐ出来ますから。あっ、勝手にあるもの使っちゃいましたけど、大丈夫でしたかね?と言うか私が作ったものを竜胆さまに食べて頂いていいものかと、今更ながらに後悔が…」
「だ、大丈夫だよ、気にしないで。俺もご相伴に与るし、お風呂も気持ちよかった、から」
「そ、ですか。なら良かった」
慌てて言葉を挟んでくれた竜胆さまにほっと笑顔を浮かべたのも束の間。ご飯が炊けた電子音に今度こそ呆気なく意識がそれて、今一度跳ね上がった高温の油が私の指先に直撃した。
「っ、あつ」
びくりと反射で体が引いて、それでも火だけは止めなくちゃと痛みのない左手でガスコンロのつまみを捻る。鶏肉が全て揚げ終わっていたことが不幸中の幸いか。焦がす心配はないと安堵しつつ油のはねた指先を見れば、普段よりも赤みを帯びたそこはぷっくりとミミズバレのように腫れ上がっている。
我ながら初歩的なヘマを…と渋い顔をしながら傷口を睨みつけていれば、不意に背後へ感じた気配にくるりと首を傾げてみる。
「…えっ」
見上げた先には苦悶の顔。眉をしかめた竜胆さまが、私を背後から覆い隠すような体勢でじっと傷口を見つめている。
「あ、の」
「…ゆび、かして」
えっ、と私の声が空気を震わせるよりも先に。やにわに伸びた彼の手が火傷の残る右手をとって、見とれるような仕草でその指を彼は己の口元に運ぶ。
ちゅ、と響いたのは可愛い音。熱を持った指先に触れた柔らかな感触と冷たい体温に、私ははたと瞬きをする。
「ん…っ、ちゅ。…うん、治った」
どこか満足気に笑った彼が、ほらと傷口一つなくなった私の人差し指を優しく撫でる。良かった、あとが残らなくて。なんて。心から嬉しそうなその声は、裏も表も無いように聞こえた。
しかしその間、私は終始無言を貫いている。何故かって?それは私の型落ちした脳ミソじゃ現状を処理するのに時間を要するから。
頭上ではきっと読み込み中とグルグルと丸い円が回っているだろうし、何時までも開けないページに現代人なら痺れを切らしているところだ。
しかし流石は妖様か。傷を治した摩訶不思議な力もさることながら、耐久力もずば抜けて高いらしい。
時にして五分。たっぷりと時間をかけてフリーズした私が復活するまで、彼は文句の一つもつけることなく、それこそど至近距離で私の言葉をじーっと待っていてくれたのだ。
「ちょっ!!!な、なんですか今のは!!てか顔!顔近っ!!」
「いや?」
「そういう問題じゃ…ってちょ、ちょっと待ってなんで抱きしめるんですか急に何事??」
「だって君、あったかい」
「何があったって????」
お風呂に入る前とは打って変わった態度に思わず目をみはる。だってさっきまでどちらかと言えば警戒心むき出しな野生動物みたいだったんだもの。こんな甘えたな犬猫、むしろ赤ちゃんみたいな態度をとられて戸惑わない訳が無い。
「竜胆さま本当にどうしたんですか?頭打った?たんこぶ…は、無さそう。そもそも妖って怪我します?」
「怪我はするけど、ちょっとやそっとじゃ傷にはならないし。俺、今頭なんかぶつけてないよ?」
「じゃあ何故そんな有様に…」
「ん…、だって君、俺のこと怖がったり、変な目で見てきたりしなかったから。今までの子と全然違う。俺のこと、ちゃんと竜胆って名前で呼んでくれた。やっぱり、君は特別だった」
「ええ?名前があるんだから、その名前で呼ぶのは普通なんじゃ…ぐえっ」
「ふつーじゃないよ。みんな妖って括りでしか俺を見てはくれないから。だから、君は特別」
「ちょ、分かったので腕の力緩めて…!」
いつの間にか正面を向いて抱き込まれた私は、玉のような胸板に押し付けられては呼吸を奪われている。これはすごい筋肉だ、なんて悠長に構えてる暇は無い。段々と近づき始めた死の気配。あわや三途の川に足一歩突っ込んだあたりでようやく竜胆さまは腕の力を抜いてくれて、代わりに猫の仔みたくまだ水気のある頭をグリグリと私の肩口に押し付けた。
「竜胆さま、このままじゃ風邪ひいちゃいますよ」
なだめるように髪をすけば、微かに不満の色を宿した黒曜の瞳が私を見据える。もっと撫でろと催促されているようでなんだか笑ってしまった。
「これぐらいじゃ風邪なんか引かないよ。人間とは違う」
「それでもやっぱり心配します。夜はまだ冷えることもあるし、もう少しでご飯の準備も全部終わりますから、その間に。ね?」
「…わかった」
分かりやすくぶすくれながらも身を引いてくれたことへお礼を告げて、炊き上がったご飯を程よく混ぜ、作り終わっていた味噌汁を温め直す間に副菜やメインの唐揚げを盛り付けていく。
炊事場の横に簡易的なダイニングテーブルみたいなものが設置されていたからひとまずそこに料理を並べて、そこでふと竜胆さまの食事は膳でお出しした方がいいのだろうかと周囲を探る。
しかしどこを探してもこれと言った食器類はなく、仕方なしに対面それぞれの椅子が並んだ卓上の上に二人分の食事を並べておいた。
「いい匂いする」
「あっ、竜胆さま。自室でいただくかなとも思ったんですけど、膳もお盆も見当たらなくて。一先ずこっちに並べちゃいました」
「…うん、これがいい。準備してくれてありがとう」
「いえいえ!それじゃ早速食べちゃいましょうか」
いただきます、と二人分の声が重なって。小さな食卓には微かな咀嚼と食器の立てる音だけが響く。
彼は初めから迷いなく唐揚げをひとつ摘んで、薄い唇をゆったりと開くと丸ごとぱくりと噛み付いた。
思ったよりも大きい口だなぁとぼんやり考えながら私も竜胆さまに続くように唐揚げへと箸を伸ばす。
適当にストックしてある食材の中から選んで料理をしたが、彼の舌にも合ってくれたようだ。ほんの少し緩んだ眦に笑って、舌の上に転がした衣に犬歯を突き立てる。
「すごいね。こんなに美味しいご飯は初めて食べた」
「そうなんですか?」
「うん。何時もは食材そのままだから」
「へえ、そのまま…あ?」
「生き物の肉って臭みがあるからあんまり得意じゃなかったけど、こんなふうに食べることもできるんだね」
「え、お腹壊しませんでした?」
「ふふ、壊さないよ。何回も言ってるでしょ、俺は人じゃないんだって」
くすくすと控えめに笑う竜胆さまに、そう言えば彼は自分とは違った生き物だったと今更ながらに実感する。
妖、妖と言われてはいたけれど、実際彼を目にしてしまえば人と違うところを探す方が難しいくらいに作りが似ている。
しかし言われてみれば確かに、さっき私の火傷を治したことなんかは紛れもなく妖としての力なんだろう。
「あの、お礼が遅れちゃったんですけど。さっきは火傷を治してくれてありがとうございました。あれも特別な力なんですかね?」
「あー、うん。そうだね。君にはまず、俺たち妖って生き物についてをもう少し説明した方が良さそう」
そう言って味噌汁のお椀を置いた彼は、どこか寂しげに目を伏せて力なく笑った。