一夜の過ちは一生の過ちだった 【完】
クロエさんが「ちぃちゃん」と呟いて視線を落とすと、ようやく俺は視線から解放された。
胸に詰まっていた息を吐くと、身体にたまった熱も一緒に吐き出されていくようだった。

ちぃちゃんと呼ばれたシルバーの柔らかそうな長い毛をした猫は、クロエさんの足首に何度も体をすり寄せ、かまって、かまって、と言わんばかりに小さく喉を鳴らす。
それに応えるように、クロエさんは慣れた手付きでちぃちゃんを抱き上げる。

「うちの子、ちぃちゃん」

恋人に向けるような眼差しで、ちぃちゃんを愛でる。
白い指先で優しく、愛おしく撫でられ、ちぃちゃんは満足げな顔をした。


気持ちよさそうだな、と眺めていると、クロエさんはちぃちゃんを俺に差し出した。
どうやって抱いたらいいのかわからず、まごついてしまう。

見兼ねたクロエさんは、俺の腕や肩に手を重ね、位置や向きを正し、無言で抱き方を教える。
その白く冷たい指を、俺の熱で溶かしてしまうんじゃないかと思った。

近くで見たクロエさんの瞳は、茶色にグリーンが少し混ざったような複雑な色で、向日葵《ひまわり》みたいな虹彩をしていた。


ちぃちゃんはこちらを睨み、「あんた、どこの誰よ」と最初は訴えていたが、徐々に腕のなかでくつろいでいった。
ビー玉みたな真ん丸い緑の瞳が、とろんとしていく。

「珍しい……。猫、飼ってる?」

「いえ。飼いたかったんですけど、妹が猫アレルギーで」

ちぃちゃんの柔らかな尻尾(しっぽ)が腕をくすぐる。


ここに来たら、ちぃちゃんに会える。
給料は倍。
地元に居ないで済む。
クロエさんはすぐに女だとわかったと言っていたけれど、男のような自分に、クロエさんがなにかするとは思えない。
クロエさんが言うように、昨夜もなにもなかったわけだし……。

それにクロエさんからは性欲みたいな、そういう人間的な欲求が感じられない。


気持ちが、揺らいでいく。


いつもの自分なら即座にキッパリと断り、無理やりにでもここを飛び出しているのに。
そもそも、あずささん達が帰る時に逃げ出すことだって出来なくはなかった。
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