あなたがそばにいるから
1.遥
目を開けたら、白い天井が見えた。
眠りから、目が覚めたらしい。
でも、家じゃない。
ここ、どこ?
何度かまばたきをしたら、ぼんやりしていた視界がはっきりとしてくる。
少し、顔を左右に動かす。クリーム色のカーテンの向こうは明るい。
天井からカーテンレールが吊られている。
見覚えはあるけど、日常じゃない。
ここ、病院?
なんとなく雰囲気で、そう思った。
さっきよりも少し大きく顔を動かして、周りを見てみる。
ああ、病院だ。
私は入院したことはないけど、おじいちゃんの見舞いには行ったことがある。似たような感じ。テレビでも見る、普通の病室。
どうして、病院にいるんだろう。
私、入院なんかしたっけ?
頭がぼんやりしてる。
今何時かな。時計が目に入らないからわからない。明るいから夜じゃない。
体の感覚は、まだ寝ている。
いつもの目覚めとはちょっと違う。
凄く長く寝ていたみたい。
右手を動かそうとして、できなかった。
何かが上に乗っかっている。
そっちを見ると、見覚えのある頭があった。
黒よりは茶色に近い、柔らかそうな髪。
ベッドの横に座って、突っ伏して。
私の右手を握って眠っている。
「……あかぎ……」
声はかすれて、ほとんど聞こえなかったと思うのに、赤木はピクッと反応する。
眠そうな顔を上げて、私と目が合うと、バッと上体を起こした。
「遥、起きたのか?大丈夫か?」
真剣な表情。凄い勢いで迫ってくる。
「え……?」
「どっか痛くないか?気持ち悪いとか吐きそうとか」
体は動かないけど、気分は後ずさる。
こんな赤木、初めて見た。
「体、動くか?感覚あるか?あ……えっと……」
赤木は、私の頭の上に手を伸ばしてナースコールのボタンを押す。
すぐにスピーカーから声がした。
『藤枝さん、どうされましたか?』
赤木が答える。
「目を覚ましました」
『はい、すぐ行きます』
赤木は息を吐きながら、丸椅子に座り直した。
目が合う。
「あの……」
話そうとしたら、看護師さんが来てしまった。
「藤枝さん、今先生が来ますからね」
脈を取りながら、私の顔を見る。
「気持ち悪かったり、吐き気がしたりしませんか?どこか痛いところとか」
順番は違うけど、赤木と同じことを聞いてくる。体温計を渡されて、熱を測った。
「いえ……」
ぼうっとしてるけど、聞かれてることには当てはまらないので、首を横に振る。
「どうしてここにいるのか、わかりますか?」
全くわからない。また首を横に振る。
看護師さんは体温をチェックして、それから血圧を測る。
いろいろ聞きたいことはあるのに、口がうまく動かない。
そうしているうちに、医師と思われる男性が入ってきた。
看護師さんが小さな声で私の様子を伝える。
医師は小さく頷いて、私のすぐ横に立った。
「ご自分の名前は言えますか?」
なにを当然のことを、と思ったけど、とりあえず従う。
「……ふじえだ、はるか……」
「生年月日は言えますか?今、何歳ですか?」
なんか、子どもに聞く質問みたいだと思いながら答えた。
「住所は?」
それも、ゆっくりと答える。
しゃべっていると、段々口が動くようになってきた。
「今日は何月何日ですか?」
「ええと、8月……25日、だったかな?」
私がそう言ったら、赤木が息を飲んだ。
なんだろう。私、なにか変なこと言ったかな。あ、日付間違えた?
「8月、25日」
医師は、私の目を覗く。
「はい……8月の、確か今日は給料日だから25日だと思うんですけど……」
違ったかな。
あれ?なんか違うかも。それは昨日のことかな。
昨日?一昨日?もっと前?
なんか、全部があやふやになってきた。
頭の中が?マークでいっぱいだ。
そんな私に、医師は言った。
「藤枝さん、落ち着いて聞いてくださいね。藤枝さんは、階段から落ちて、救急車でここに来ました。昨日の夕方です。頭を強く打っていたようでしたけど、検査の結果、脳内で出血してるとか、そういうことはなさそうでした。右側の後ろの方にコブができてますから、しばらく痛いかもしれません」
医師はそのまま、体はところどころ打撲しているけど大したことはないことを説明してくれた。
ただ、頭を強く打っているので、後から何か症状が出るかもしれないから注意するように、と言い、注意すべき症状を告げた。
とりあえず今日と明日の様子を見て、なんともなければ明日退院できるかも、と言われた。
「起き上がる時とか、動き出す時はゆっくり動いてください。とりあえず病院にいる間。退院したら、普通にしていいです」
そして、医師は看護師さんに何事かを指示して、出て行った。
看護師さんは、私につながっている点滴の機械を確かめている。
「……あの」
声をかけると、ん?と笑顔を向けてくれる。
私は、今一番知りたいことを聞いてみた。
「今日は、いつなんですか?」
さっき、私が『8月25日』と言ったら、部屋が変な空気になった。
8月25日じゃないのは、なんとなくわかった。
じゃあ、いつなの?
看護師さんは、困ったように微妙に笑って言った。
「今日はね、10月20日です」
……じゅうがつ、ジュウガツ、10月⁈
「頭を強く打つと、一時的に記憶が飛んだりすることはあるんですよ。そのうちフッと思い出す人もいるし、あんまり気にしないで。今はとにかく体を休めて。気を楽にしてね」
看護師さんは、呆然としている私に優しく言った。
そして赤木に、何かあったらすぐに呼ぶように言って、病室を出て行った。
残されたのは、呆然とする私と、複雑な表情をした赤木。
「……何時?」
「えっ?」
「8月25日の、何時まで覚えてる?」
「え……」
記憶を辿る。
朝は覚えてる。給料日だから、何かおいしいものを食べようかなって思った。そして会社に行って。
「昼飯、どうした?」
私の考えてることがわかるみたいに赤木が言う。
「昼ご飯は、確か小山田さんと、会社の裏のカフェに行った」
うん、それも覚えてる。サラダがおいしいカフェで、ランチサラダセットを2人で頼んだんだ。
「その後、会社で渡辺君がコーヒーこぼして私にかかった」
結構派手にこぼして、私の服にもかかったんだんだ。黒い服だったから、特にシミとかにはならなかったけど。
「それから?」
その後……あれ?
急に、頭の中に霧がかかる。
思い出したくても、なんにも出てこない。
「コーヒーを拭いた布巾を持って、給湯室に行って……そしたら……」
「そしたら?」
「……駄目、そこまで。給湯室の入り口までしか思い出せない」
給湯室はドアがなくて、廊下からそこに曲がろうとしたところまでは覚えてる。
赤木が、すっごく大きなため息をついた。
「……なによ」
上げた顔は、とっても何かを言いたげだったけど、赤木は黙って私を見ている。
「ねえ、私、一体どうしたの?何があったか知ってる?」
階段から落ちて、頭を打ったんだっけ?
どこの階段?そして、どうして赤木がここにいるの?
「ああ、ええっと」
赤木が話そうとしたら、ブルブルとスマホが震える音がした。
「ちょっと待って」
赤木が電話に出る。
「はい。……いえ、大丈夫です。……はい、ついさっき目を覚ましました。……代わりますか?……わかりました、伝えます。……はい、お待ちしてます」
チラッと聞こえた相手の声は、なんだか聞き覚えがあった。でも、どうして赤木に電話してくるの?
「お母さん、もうすぐここに着くって」
「え、あれやっぱり」
「うん、遥のお母さん」
「なんでウチのお母さんと赤木が電話?ていうか、なんで名前?なんで赤木がここにいるの?」
「ちょっと待てって。ああそうだ、連絡しなきゃいけないところはもう一つあったんだった」
赤木はそう言って、窓の方に向いて電話をかける。
ていうか、ここって電話OKなの?
見回すと、ベッドは一つしかない。
個室なんだ。だからって、電話はいいの?病院の中って駄目なんじゃなかったっけ。
「赤木です。……はい、さっき目を覚ましました。……体は大丈夫みたいです。……いえ、あの……はい、わかりました。じゃあその時に」
赤木は電話を切って、こちらを向いた。
「今、課長と橙子さんが来るって」
「え……」
なんで課長と、しかも橙子さんまで?
「あのな、お前、橙子さんを助けようとして階段から落ちたらしいの。それで、橙子さんが凄く取り乱しちゃって、橙子さんも入院してたんだよ。上の階にいるから、すぐ来るって」
「へ……?」
耳慣れない言葉のオンパレードで、状況が全く理解できない。
赤木は、フッと笑う。
「とにかく、橙子さんに元気だってとこ見せてやれ。倒れるくらい心配してたんだから」
「え……」
「自分のせいだって言って、泣きじゃくってた。お前が救急車で運ばれて、その直後に倒れちゃったらしい」
赤木は私に付いて救急車に乗ったので、後から聞いたんだそうだ。
「ほら、北山さんのことがあるからさ、事故には敏感に反応するんじゃないかって課長が言ってた」
北山さん、とは、橙子さんの前の旦那さんのこと。事故で亡くなった。
その後、橙子さんは精神的に不安定になり、声が出なくなった時期がある。
その橙子さんを守り、支え続けたのが、元木課長。私と赤木の上司。
橙子さんは、今は元木橙子になり、誰が見ても幸せな夫婦として、周囲には知られている。
「遥さん……」
ドアの方から声がした。
と思ったら、橙子さんが私の左側に飛び込んできた。
泣きながら私の手を握って、お祈りをしてるみたいなポーズだ。
「良かった……良かった、目を覚まして……」
ささやきに近い声。橙子さんの手はあったかかった。
「橙子さん、私大丈夫ですから、そんなに気にしないでください」
「でも……」
橙子さんの目からは大粒の涙がぽろぽろこぼれて、涙はキラキラしてて、凄く綺麗に見えた。
どうしたら橙子さんは泣き止んでくれるのかなあ、と思っていたら、赤木が静かに声をかけた。
「幸い頭も体もなんともないみたいで、検査もしたけど問題なしって言われたんです。様子見て、なんともなければ明日には帰っていいそうなので。だから大丈夫ですよ」
後ろから入ってきた課長が、橙子さんの肩に手を置く。
「橙子さんが泣いてたら、藤枝が気を遣って休めませんよ。ほら、よく見て。顔色もいいし、元気そうですよ」
橙子さんが、うるうるの目で私を見つめる。うっ、めっちゃ可愛い。
橙子さんが安心できるように、えへへと笑ってみる。
「大丈夫ですから。泣かないで、橙子さん」
握られた手を、私も握り返す。
橙子さんは、涙目のままで微笑んだ。
「良かった、本当に……」
その笑顔は、本当に可愛くて綺麗で。
私もこうなりたいなあ、と思った。
落ち着いた橙子さんから聞いた話によると。
建築デザイナーである橙子さんは、我が社船木建設に打ち合わせに来ていた。
滞りなく仕事は終わり、自席で仕事をしていた私に顔を見せて帰ろうとした。
1階まで送る、と言う私と一緒にエレベーターに乗ろうとしたら、2基ある内の1基が故障中で、もう1基は激混み。
おしゃべりしながら階段で行こう、と降りていた時、階段を踏み外した橙子さんを落ちないように引っ張った私が、代わりに落ちてしまったらしい。
上から3、4段目くらいからだったそうなので、結構高いところから落ちたんだなあ、と他人事のように思った。
橙子さんの悲鳴を聞きつけた我が社の社員が救急車を呼び、パニック状態の橙子さんが元木課長の奥様であることがわかり課長を呼んで。
駆け付けた課長が赤木を呼び、赤木が私に付いて救急車に乗った。
その直後、激しく動揺していた橙子さんも意識を失ってしまい、救急車をもう一台呼んだ。
同じ病院に運ばれて、橙子さんが気がついたのは夜の9時過ぎ。私が目覚めていないと聞いた橙子さんはとっても不安定で。同じ病院にいれば何かあったらすぐに駆けつけられるし、との課長の勧めもあって、一晩入院することにしたんだそうだ。
赤木は、私に付き添って病院に来て、検査をしている間に私の実家に連絡をした。
状況を説明して、命には別状がないことがわかると、明日行くからそれまでよろしく、と母に言われたんだそうだ。
そして、ずっとここにいてくれた。
帰ってもいい、と言われたけど、意識が戻るまでは、と思っていたんだそうだ。
これが、10月19日の出来事。
明けて、10月20日。午前8時。
私は意識を取り戻した。
でも、頭の中は、8月25日。
その間、約2ヶ月。
私の記憶、どこに行っちゃったんだろう……。
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