あなたがそばにいるから
2.遥
診察の時間だから、と橙子さんと課長は戻って行った。橙子さんが落ち着いたし、おそらくすぐに帰っていいと言われるだろうと言っていた。
記憶がないことは、言えなかった。やっと落ち着いた橙子さんに、また負担をかけてしまうと思って。
赤木も同じことを思ったらしく、そのことについては何も言わなかった。
「なによ元気そうじゃない」
現れた母は、開口一番こう言った。
「もっとぐったりしてるのかと思った」
ツカツカと入ってきて、私の横に立つ。
「会社休んじゃったわよ」
「……それは、ごめん」
母は仕事が大好きな人なので、よほどのことがない限り休まない。
その母が仕事を休んで来てくれた。それだけで充分心配してくれたんだとわかる。
「ああ、本当に大丈夫そうね。じゃあ帰ろっかな」
「え、もう?」
「冗談。でも泊まらないで帰るわ。まだ入院してるんでしょ?」
「退院は、早くて明後日だって」
「優太君もいてくれるし、それなら心配ないもの。あ、面倒ならほっぽり出してね。結構たくましい子だから大丈夫よ」
後半は赤木に向けて言ったもの。昔から自分の子どもの扱いは雑だ。
赤木は苦笑するしかない。
ていうか『優太君』てなに?
赤木の名前は優太。話の流れからも、母が言うのは赤木のことだとわかるけど、なんで名前?
そういえば、さっきから赤木は私を『遥』って呼んでる。
それも、なんで?
「お母さん、なんで赤木の名前知ってるの?」
「なんでって。遥が紹介してくれたんでしょ。先月、家に」
「ああ、お母さん、あの」
赤木が母の話を遮った。
そして、部屋の隅に連れてって、ボソボソと何かを言っている。
母は『えっ』と一度驚いて、その後はうんうんと頷いていた。
話が終わったのか、母はこちらに振り向くと、にっこり笑った。
「とりあえず、電話してくるわ。お父さんに報告しなくちゃ」
荷物置いてくね、とベッドの脇に旅行用のカバンを置いた。
ここでかければ、と言いかけて、電話OKなのか確かめてないことに気付いた。
赤木は何も言わないけど、どうなのかな。
考えているうちに、母は出て行った。
『先月、家に』ってなんだろう。
赤木は、母に何を言ったんだろう。
とにかく疑問だらけ。
赤木を見ると、目が合った。
「なんか、飲むか?」
「……お水」
赤木は足元のカバンを探る。
ペットボトルを出してサイドテーブルに置き、起き上がる私を支えるために、こちらに手を伸ばす。
「ねえ、なんでウチのお母さんが赤木を名前で呼んでるの?」
ピタッと手が止まった。
「あー……」
赤木はうなって、黙って私を起こした。
ペットボトルを開けて私によこすと、椅子に座って下を向いてしまった。
水を一口飲む。
飲んだら、喉が乾いていたことがわかって、もう少し飲んだ。
しばらく待っていたけれど、赤木は動かない。
「赤木、大丈夫?」
そう言うと、赤木は顔を上げた。
眉根を寄せて、困っているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、いろんなものが混ざっている表情。
なんて声をかけたらいいか、わからなかった。
そんな表情にさせているのは、多分、私。
私の記憶がなくなっているのが原因なんだと、直感で思った。
「……ごめん」
赤木はそう言って、また下を向いてしまった。
「なんで謝るの?」
「……遥が悪い訳じゃない。仕方ないよな。覚えてないんだから」
「……ごめん」
「謝らなくていい。大丈夫だ」
いつもよりも低い声、暗い顔。
なにか嫌なことがあっても明るく発散させる赤木らしくない。
「ごめん、やっぱさすがにちょっとキツイ。だから、言うぞ」
「は、はい」
真剣な表情に、居住まいを正す。
赤木は、私の目をまっすぐに見て言った。
「8月25日は、俺と遥が付き合うことになった日だ」
「…………」
「なんか言え」
「…………うそ」
「嘘じゃない。給料日を口実に飲みに誘って、告白してOKもらった」
「…………」
「俺とお前は付き合ってんの。だから俺は遥って呼んでたし、お前は俺のことを優太って呼んでた」
「…………ほ、ほんとに?」
「ほんとに」
驚きはしたけど、同時に納得もしていた。
赤木の好意は感じていたし、私も赤木のことは憎からず思っていたから、そうなっててもおかしくはない。
とは言っても。
「大っぴらにはしてないけど親しい人達は知ってる。だから、お前が階段から落ちた時、課長は迷わず俺を呼んだし、救急車にも俺が乗った。お母さんが俺を知ってるのは、先月一緒にお前の実家に行ったからだ」
「えっ実家行ったの?」
「行った。近い内に一緒に住みたいから、ちゃんと挨拶しようって。俺の実家にも行った」
「一緒に住む⁈なにそれ」
「言葉の通りだ。まだ具体的にはなにも決まってない。そうできたらいいねくらいだったから、遊びに来ましたっていう体で顔だけ見せようって」
「あ、そういうこと……」
「そう。だから、俺がお前のことを遥って呼ぶ度に変な顔しないでくれ」
「えっ変な顔してた?」
「してた」
「……ごめん」
「だから謝らなくていいって」
赤木は私の頭をぽんとなでた。
これは、記憶をなくす前からしてくれてた。
私を家まで送ってくれて、帰る時に、ぽん、として行く。
こうしてもらうと、なんだか安心できて、よく眠れそうな気がしてたんだ。
「それと、できれば……」
赤木は、言いかけてやめる、というのを2回くりかえした。
「ん……まあいいや」
「なによ、気持ち悪いから言って」
「いや、いいんだ、大したことじゃない。お母さんが戻ってきたら、一旦家に帰るよ。あと、遥んち行って、着替え持ってくるから」
「うん……て、え、ウチに?」
「ああ、カギ借りるぞ。俺んちにも遥の着替えはあるけど、Tシャツとかそんなんだし。今必要なのは下着とかだろ?下着はさすがにウチには置いてないし」
「あ……はい……お願いします……」
そうだよね、付き合ってるんだから、私の着替えが赤木の家にあってもおかしくない。
はた、と気付く。
着替えが家にあるということは、泊まったりしてたということで。
ということは、つまりそういうこともしてたってこと、だよね。
そりゃあだって、一緒に住むなんて話が出るくらいだもん。
…………想像できない。
視線を感じた。赤木の。
目が合ったら、ため息をつかれた。
私は、普段から思っていることが顔に出る。
赤木は、それを読むのがとても上手だ。
「……ごめん……」
「その謝罪は受け取る」
気まずい……。
そんなところに母が戻ってきた。
「3時くらいまでいるわ」
「うん……じゃあのんびりしてって」
「お父さんが、優太君によろしくって。すっかりお世話になっちゃうわね」
「いえ、僕は付いてただけで、大したことは」
「してるわよ。おかげでウチは大助かり」
母は改まって頭を下げた。
「ありがとうございます」
赤木が恐縮している。
「ありがとう、赤木」
私も頭を下げたけど。
私に対しては、何かを言いたげにして。
きっと、母がいるから引っ込めたんだと思う。
赤木はその後、言っていた通り自分の家に帰った。夕方、私の家に寄ってから、着替えを置きに来てくれるんだそうだ。
その時、言いたいことを聞いてみよう。
2人になった病室で、母に聞いてみた。
「先月、家に行ったって聞いたけど」
「ああ、もう聞いたの?」
頷くと、母は少し笑う。
「記憶がないっていうの聞いた時はびっくりしたわよ。付き合い出す前までの記憶しかないから、その辺は自分から混乱させないように話すからって優太君に言われたの」
「……そうだったんだ」
その割には直球で聞かされたけど。
『さすがにキツい』って言ってたし、気を遣う余裕はなかったらしい。
「大事にされちゃって、いいわね」
「……そうかな」
「そうよ。良かった、そんな人が近くにいて。私もお父さんも安心よ」
「そ、そう……」
「覚えてなくても、付き合ってたのは事実だからね。家に来た時は、仲良くて微笑ましかったわよ」
「……そう……」
「遥はまだふわふわしてたけど、優太君は、なんていうか、地に足がついててね。お父さんが、あの子はいいなって言ってた」
「ふわふわって……」
「落ち着かないっていうか、なんていうか。まだまだ子どもだと思ってたけど、まあ優太君がいてくれるんならね」
なんかずいぶん信頼されてるな。
まあわからないでもない。
赤木はここ1年くらいで急に大人っぽくなった。
もともとの明るい雰囲気に落ち着きが加わって。背は180cmあるし、体格は肩幅があってしっかりした体つき。可愛いとカッコいいの間を取ったようなイケメンで、その人懐っこい笑顔で年齢性別を問わずモテモテだ。
一時期は結構遊んでいたらしいけど、最近は仕事一筋で真面目にしていて、仕事中はキリッとした顔付きで。
それが更に人気を集めている。
その人気者と、付き合ってたんだよね……なんか恐れ多いな。
母は、いろいろ考え出した私を見て、吹き出した。
「あんたってほんとわかりやすい。覚えてないからって気後れしちゃ駄目よ。忘れられてショックなのは優太君の方なんだから」
母は明るく笑ってそう言う。
なんだか、置いてけぼりの気分。
私だけ頭の中は8月なんだから、気分だけじゃなくて本当にそうなんだ。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
不安な気持ちで、回診を受ける。
医師は言った。
「記憶はね、戻ることもあれば、そのままのこともあります。部分的に戻ることもあるし、いろいろなんですよ。このまま日常を過ごして、様子を見るしかありません」
はあ、としか言えなかった。
体は問題ないらしいので、今日様子を見て、明日回診が終わったら退院してもいいことになった。
お昼前に、橙子さんと課長が来た。
退院することになったので、帰る前に顔を出したんだそうだ。
「良かったですね。お家でゆっくり休んでください」
私がそう言うと、橙子さんはまた頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
まだ続けようとした橙子さんを遮った。
「大丈夫ですから、もう気にするのはやめましょう」
「でも」
「そんなに気にしてくださるんなら、私が退院した後、快気祝いしましょう。橙子さんのカルボナーラ、食べたいです」
「えっ、そんなのでいいの?」
「はい。課長の家でやりましょう。カルボナーラは絶対出してくださいね」
橙子さんの作るカルボナーラは、手作りソースの絶品だ。ご本人は『適当に作ってる』と謙遜してるけど。私の大好物だ。
橙子さんは、早速メニューを考え始める。謝るのは忘れてくれたようだった。
「藤枝の好きそうなワイン、用意しとくよ」
課長が笑顔で言う。そして、母と挨拶を交わす橙子さんに聞こえないように、私にささやいた。
「ありがとう。助かった」
橙子さんのことだ。多分、ずっと私の心配をしていたんだろう。
私はえへへと笑った。
課長ファンの私は、少しでも課長の役に立てると嬉しい。
「退院したら連絡してくれ。会社の方の手続きはやっておくから」
「ありがとうございます」
「ゆっくり休んでいいからな」
「仕事の方は、大丈夫でしょうか」
私は今サポート役だから、対外的には大丈夫なはず。問題は、社内の方だ。
「渡辺がテンパってるけど」
渡辺翔君は、今年の新入社員。私と一緒に、先輩達のサポートをしながら、仕事を覚えているところだった。
課長は苦笑する。
「他はまあ大丈夫だ。渡辺も、いい機会だと思って頑張ってるから。藤枝は無理しないで、回復したら来ればいい。有給はたっぷりあるから」
課長が大丈夫と言うなら、本当に大丈夫なんだろう。
お言葉に甘えて、仕事は気にせず、ゆっくり休もうと思った。
3時に赤木が戻ってきて、母は帰って行った。
赤木に「遥をよろしくお願いします」と頭を下げて行った。
赤木は恐縮しつつも、しっかりと頷いてくれた。
「明日、退院してもいいって」
「そっか。じゃあ迎えに来る。何時?」
「……1人でも帰れるよ。仕事じゃないの?」
「お前が退院するまでは休んでいいって、課長が」
橙子さんをかばってくれた私のためにということらしい、と赤木は言った。
「だから、明日までは休む。最近忙しかったし、いい口実だから」
「それならいいけど」
赤木が、私の頭をぽんとなでる。
「寝ていいぞ」
「え?」
「疲れただろ。横になってろよ」
言われてみれば、確かにちょっと疲れたかも。
久しぶりに母とも話が弾んだから、テンションも上がってた。
枕に頭をつけると、急に睡魔が襲ってきた。
「ごめん、眠い……」
「いいから寝ろ。眠るまでいてやるから」
「うん……ありがと、赤木……」
赤木はまた何かを言いたげにしたけど、私は睡魔に抗えず、眠りに落ちてしまった。