あなたがそばにいるから
4.優太
会社に行って、朝一で課長に時間をもらった。
一番小さいミーティングルームC室で向かい合う。
「記憶が無い?」
「はい、8月末からの記憶が全く無いそうです。今が10月だって聞いて、驚いてました」
課長が唖然としている。人によっては間抜けな顔なんだろうけど、この人は何をしてもいい男だ。
「そんな……そんなこと、あるのか?」
「医者の話では、まあまああることらしいです。多いのは、落ちる直前の記憶がすっ飛ぶことなんだそうですが、もっと長い期間のこともあるらしくて、藤枝はたまたま2ヶ月だったんだろうって」
「それは、戻る、のか?」
「わからないそうです。全部戻る人もいれば、一部だけ戻る人も、そのまま戻らない人もいるんだそうで」
「そうか……」
課長はそう言って、ため息を一つついた。
「藤枝の様子はどうだ?」
「体は大丈夫みたいです。頭の中が8月だから、寒いって言ってました」
雰囲気を軽くしたくて、笑いを交える。課長も少し笑ってくれた。
「少しずつ、今が10月だってことを実感してるみたいです」
「落ち着いてるな」
「いや、多分まだ頭の中真っ白だと思います。混乱するところまで行ってないですね。なにしろ自分のことには鈍いので」
遥は、今が10月だということを、ゆっくりゆっくり感じているらしかった。
ベランダに出て外を眺めて、風を感じて。
テレビの紅葉のニュースを見て。
半袖だったクローゼットが長袖に変わっていたり、タオルケットだけだったベッドに毛布があることに感心したり。
「多分そのうち混乱し出して、本当に落ち着くのはその後ですね」
「そうか……」
課長は何かを考えていたけど、不意に何かに気付いたように視線を上げた。
「赤木と藤枝が付き合い出したのって、確かその頃じゃなかったか?」
ああ、気付かれた。
「そうです。あいつの中で、今俺は、同期の同僚です」
「ああ……」
課長はうなって、うなだれた。
「ごめん」
「いや、課長が悪い訳じゃ……」
「でもこうなったのは橙子さんが……」
「謝らないでください。誰が悪い訳じゃないし、誰かが悪いからって、記憶が戻る訳じゃないし」
「でも」
「このこと、橙子さんには言うつもりですか?」
「……そうだな、黙ってる訳にはいかないだろ」
「なら、その時に一緒に伝えてください。俺はピザがいいですって」
「はあ?」
課長はまた唖然とした。でもかっこいいことには変わりない。
「聞きました、快気祝いの話。藤枝はカルボナーラなんでしょ?俺はピザがいいです。橙子さんの焼肉ピザ」
市販のチーズピザに、橙子さん特製のタレに漬けた牛肉を焼いてトッピングした焼肉ピザは、俺の大好物だ。
「あのなあ……」
「だって、そうじゃなきゃ橙子さんも課長もいつまでも気にするでしょ?だから、カルボナーラと焼肉ピザで帳消しです」
課長は、ははっと笑った。
「わかった。じゃあそう言っとくよ」
その笑顔は、男の俺から見てもやっぱりいい男だった。
仕事は、遥が充分に回復してから、ということにしてもらった。
記憶のことは、本人と話して、周知するかどうか決めるそうだ。
「……こんな時は、見守るしかできないからな……」
課長が呟く。
そうだ。この人は、そういう意味でも先輩だ。
「課長は……橙子さんに、そうしてたんですね」
課長が、フッと苦笑した。
「それしかできなかったから」
声が出なくなった橙子さんを、課長は見守ってきた。
3年という長い間。
どういう気持ちだったんだろう。
今まで、大変だったんだろうなとは思っていたけど、その心の内まで想像することはなかった。
身近だけど、他人事だったから。
「……俺は、本当に、それしかできなさそうです」
昨日、半日一緒に過ごして。
「なんにもできなくて……」
自分が情けなかった。
うつむいた俺に、課長は静かに言う。
「俺も、なんにもできなかったよ。できたのは、そばにいることだけだった」
穏やかな声。
俺は、何故か突っかかってしまった。
「そんなことないでしょう。橙子さんは元気になったじゃないですか」
課長は少し驚いたようだったけど、すぐに苦笑する。
「あれは、橙子さんの力だよ。あの人は、芯が強い人だから」
それはわかるけど、それだけじゃない。
「橙子さんが強い人だっていうのもわかりますけど、それだけじゃないのも、見ててわかります。課長がいたから、橙子さんは自分を取り戻せたんですよ」
でも、俺は、文字通り、いるだけだ。
それじゃ、なんの役にも立たない。
そんな自分にイラついて、課長に八つ当たりしてる。情けなくて、最低だ。
そう思っていたら、課長がククッと笑った。
「……なんですか」
怒られるかと思ったら笑われた。
「いや、俺と同じだなって思って。俺も、同じこと思ってたよ。だから、赤木もそばにいたらいいんじゃないか?橙子さんと同じ、芯の強い、藤枝のそばに」
「え……」
同じ、だなんて言われると思ってなかった。
いいんだろうか。遥のそばにいても。
昨日だって、本当にいるだけで何もできなかった俺が。
「赤木の方が、俺より辛いかもしれないけどな。俺はゼロからのスタートだったけど、赤木は進んでたのに忘れられてる」
ああ、言われてみればそうだ。
「でも、思い出すかもしれないし。それに、藤枝は、付き合い出す前からちゃんと赤木のことが好きだったと思うぞ」
「え……」
「赤木はずっと藤枝が好きだっただろ?藤枝は……いつからだったか、赤木を意識し出したみたいで、いつ付き合ってもおかしくないと思ってた」
課長は、俺を安心させるように、穏やかに笑った。
「今はその状態ってことだ。だから、そばにいていいんだよ。もう一度、付き合い始めればいい」
「そんな簡単に言わないでくださいよ」
「なんで?簡単だろ?赤木としては複雑かもしれないけど、無くしたくないなら、もう一度始めればいいんだよ」
「そう……です、か、ね……」
「そうだよ」
あんまりあっさりと言われたから、素直に納得してしまう。
そうか、あの日みたいに、また始めればいいのか。
なんだか気持ちが軽くなった。
我ながら単純だと思いつつ、でもその方が楽だからいいか、とも思った。
昼休み、遥にメッセージを送る。
ーーー体調どう?昼メシ食べたか?
ーーー大丈夫。元気だよ。お昼も食べたよ。
ーーーなに食べた?
少し間があって、返事が返ってくる。
ーーー置いてってくれたスープ
嘘だな。多分食べてない。
遥は目が覚めてから食欲がないらしく、病院にいた時から食べる量が減っていた。
昨日も、昼はいつもの半分しか食べなくて、夜も食欲が無いと言うので、そんな時でも遥が少しは食べるワンタンスープを作った。いつもの半分くらいよそって、それは完食した。
朝食用にも取り分けて置いてきたけど、そのことだろう。
やっぱり無理を言って泊まった方が良かっただろうか。そして、朝食も食べさせて。
少し前、課長が昼休みに家に帰って、橙子さんと昼食を摂ってまた戻っていたことを思い出した。
当時、夫を亡くした橙子さんは、鬱状態がひどく、1人では何もできない状態だったそうだ。
長時間1人では置いておけず、かと言ってヘルパーのような他人が家に入ったり、あるいは入院、は橙子さんが泣いて嫌がった。だから課長は自宅から歩いて通える今の会社に転職した。
時間外労働は一切せず、少しでも長く橙子さんのそばにいて、支え続けた。
橙子さんは、そんな課長に応えるように、少しずつ元気を取り戻していったらしい。
俺もそんな風にできたらいいんだけど、あいにく家はそんなに近くない。
とりあえず、帰りに寄って、何か食べさせよう。
そう思って、集中して仕事を進めた。
定時で会社を出て、遥の家に向かう。
家の近くの惣菜店でプリンを買う。惣菜店なのにプリンがおいしくて、遥も俺も気に入っている。
食事はしなくても、これなら食べるだろ。
思った通り、プリンを見た遥はぱっと笑顔を見せた。
「ありがと、嬉しい」
「これなら食べられるか?」
「うん。……て、なんで?」
「朝から食べてないだろ?」
言いながら冷蔵庫を開けると、半分に減ったワンタンスープがあった。
「……お昼のメッセージの時は、嘘ついちゃったけど、その後少し食べたよ。せっかく作ってくれたんだし……」
不満そうな小さな声。決めつけて悪かったな。
「そっか。ありがとな」
頭をなでる。
えへへと笑う遥が可愛くて、そのまま抱きしめたくなった。
手を離して、ぐっと堪える。
その前に、ちゃんと話さないと。
夕食は、プリンと一緒に買った炊き込みご飯と、余ったスープにした。
遥は、やっぱり食欲が無さそうだったけど、少しずつ食べ始めた。
「会社、どうだった?」
「うん、まあ、なんとかなってた」
実際には、よってたかってなんとかしてた、というのが本当だけど、それを言うと早く会社に行かないとというプレッシャーを感じさせそうだ。
遥は、細やかな仕事をする。周りはそれで凄く助かっていた。抜けた穴は大きい。
「渡辺が頑張ってたよ」
「それ課長も言ってた。そんなに頑張ってるんだね」
「そりゃもう、目が回るくらい」
「なにそれ」
遥があははと笑う。
「いやほんとに。遥の気配りが相当凄いってことがわかったよ、俺だけじゃなく、みんな」
これは誇張ではなくて本当のことなので、真剣に言う。
「あ、ありがと……」
真剣さが伝わったのか、遥ははにかんで目を伏せる。
やばい、可愛い。
抱きしめたくなるところを我慢して、話題を変えた。
「遥は、今日何してた?」
「んー……ぼーっと……散歩」
「そっか。今日天気良かったもんな」
「うん……ごめんね」
「なんで謝るの」
「だって、みんな仕事してるのに、私だけのんきに散歩してて……」
「体、休めるんだろ。それとも、もう出勤するか?」
考え込む遥の頭をなでる。
「休むのも仕事のうちだからな。ちゃんと元気になってから来い」
少し間があって、でも遥は頷く。
俺は冗談めかして言った。
「体力無いと、多分辛い。仕事の量、覚悟した方がいいぞ」
「えっそんなに?」
「考えてみろ、あのそそっかしい渡辺に、遥の仕事ちゃんとできてると思うか?」
遥の顔が青くなる。
「怖い……!」
「そうだろそうだろ。休むなら今のうちだ」
目が合って、2人でゲラゲラと笑った。
良かった。どこかしら暗さが取れなかった遥の表情が、明るくなった。
それが嬉しくて、口が勝手に動いた。
「好きだ」
笑顔が固まった。あの時と同じだ。
「俺と、付き合って」
またあの時と同じ、フリーズしている。
「遥」
名前を呼んだら、はっとして。
そして、顔を赤らめた。
「付き合っ……てるんじゃなかったの……?」
「え……」
どういうことだ?
遥は赤い顔のまま続けた。恥ずかしいのか、目をそらす。
「だって、赤木がそうだって言うから、そうなんだって思って……」
「え、遥、記憶無いんだろ?」
「無いよ。無いけど、付き合ってるんでしょ。8月25日から」
「そうだけど……」
「8月25日からの記憶は無いけど、それまで赤木が好きだったのはちゃんと覚えてるし……」
「え……」
「だから、納得したっていうか、ああそうなったんだって思ってた」
言葉が出てこない。
目をそらしたままの遥は、ますます顔を赤くする。
「今日、着替える時に、クローゼットの中に赤木の服コーナーを見つけたの。家で着るような服が入っててさ、あーここでくつろいでたんだなって思って。カップとか、歯ブラシとか、赤木の物がたくさんあって。この2ヶ月の間、ここに赤木が来てたんだなってわかった」
俺がここに来る方が多かったからだ。遥があまり気にしないから、俺の物はどんどん増えていった。
「一緒に住むって話あったでしょ。聞いた時はびっくりしたけど、そんな話が出てもおかしくないんだなって、部屋を見てわかったの」
俺の方から言い出した。
仕事が忙しくてずっと気を張ってる。帰ってきて、遥といると癒された。
毎日こうだといいなって、思ったんだ。
「違和感とか全然なくて、ああそうなんだって素直に思えた。もちろん、覚えてないのは嫌だし、思い出したいけど、でもどうにもできないし……」
また暗い顔になってしまう。
「いいんだ」
手を伸ばして、また遥の頭をなでる。
「無理しなくていい。もう一度始めればいいって思ったんだ」
「……もう一度」
かみしめるように、遥は言った。
「そう」
嬉しい。俺がいることを、遥が受け入れてくれてる。
そばにいていいんだ。
そう思えた。
「遥、改めて、俺と付き合って」
遥は少し目を見開いて俺を見た。
その後、恥ずかしそうに笑った。
「はい。よろしくお願いします」
愛しい気持ちがあふれ出た。
横に行って、抱きしめる。
遥も、抱きしめてくれた。
「……ごめんね、心配かけて」
小さな声が聞こえる。
「いや、むしろ嬉しい」
「心配するのが?」
「堂々と心配ができるのは、彼氏の特権だろ?」
「……ふふ、そっか」
ふわっと甘い香りがした。
あの時と同じだ。
本当だ。簡単だった。
もう一度、始めればいい。
もし、また忘れても、また始めればいい。
「……お願いがあるんだけど」
そう言うと、遥が顔を上げた。
「なに?」
でも、顔を合わせるのは恥ずかしくて、胸に抱き寄せる。こうすると、俺の顔のすぐ下に遥の頭が来る。髪の甘い香りが鼻をくすぐる。
「名前で呼んでほしい」
「へ……?」
身動きしようとする遥を、くっと抑える。顔が熱い。今見られたくない。
「名前。ほら」
「え……ゆ、ゆうた……?」
「なんで疑問形なんだよ。ちゃんと呼んで」
「……優太」
遥が、顔を俺の胸に押し付ける。恥ずかしくなったか。
「よし。間違えんなよ」
こくんと頷く。
頭をなでたら、気持ち良さそうに力が抜けた。
「眠いか?」
「うん……」
「寝ていいぞ」
「うん……」
すうっと、寝息が聞こえた。
遥がもたれかかってくる。
ちょっと体勢を変えて、膝枕にした。
頭をなでると気持ち良さそうに笑って。
俺も、幸せな気分になった。
しばらく寝かせたけど、起きる気配はない。
無理矢理起こして、開かない目の遥をベッドまで連れて行った。
寝かせて布団をかけると、遥が手をぱたぱたさせる。
なんだ?と思ったら、うう、とうなった。
「……ゆう…ん〜……」
横を向いて、自分の隣を探っている。
俺を捜しているらしい。
吹き出しそうになって、口を押さえた。
遥は眉間にしわを寄せて、泣きそうだ。
ぱたぱたさせている手を握る。
安心したような息を吐いて、すうっと眠った。
いつもと同じ寝顔。
ゆるゆるで、気持ち良さそうで、時々笑ったりうなったりして、安心し切って。
こんな顔をしてもらえるなら、俺は遥のそばにいる。
ごちゃごちゃ考えるのはやめた。
俺には遥が必要だ。
それだけわかってればいい。
手を離すとうなり出すので、トイレにだけ素早く行って、また手を握った。
そのうち俺も眠くなってきて、遥の隣に入って、抱きしめながら眠った。