あなたに嫌われたいんです

向こうの魂胆



 翌朝リビングへ入ってみると、すでに理人さんは出勤したあとのようだった。

 テーブルの上には朝食が並べてあった。それを見て胸が痛んで仕方がない。なぜ彼はこんなにも私に親切にしているんだろうか? 不思議でならない。

 食事はすべて食べた。皿を洗い、慌てて家を出る。この家からの出勤は初めてだった。

 電車を乗り継いで会社へと向かう。実家にいる頃より、通勤時間はやや長くなった。それは仕方ないことだったが、朝が弱い私にはやや苦痛ではある。通勤電車はもみくちゃで、せっかく朝セットした髪はすでに乱れていた。

 うんざりしながらようやく目的の駅につき下りる。そこからなるべく足早に、自分の会社へと向かった。到着した頃には、すでに疲労感でいっぱいだった。

 やや古い外見のうちの会社は、社員が百人にも満たない会社だ。父が経営者になってから、社員はどっと減った。母が経営していたころは、もう少し人数が多かったし活気もあった。会社としては大きくないけれど、その割に利益もそこそこあり、あの頃はみんな楽しそうに仕事をしていた気がする。

 今はみんな眉をひそめて仕事をしてることが多い。それが申し訳なく、心苦しい。

 私は挨拶をしながら自分のデスクに向かった。持っていた鞄を置いて、さっそくパソコンを立ち上げる。ふうと息を吐いて、鞄からスマホを取り出した。何気なく画面をつけたところで、ぎょっと目を見開いた。

 画面に、ラインが来ていたのだ。

『おはようございます、お先に行ってきます』

『以前より通勤時間長くなってしまいましたよね、すみません』

(理人さんだ……)

 ようやく気が付いた。彼は朝からメッセージを送ってくれていたのだ。

 昨晩提案した、めちゃくちゃな事項を思い出す。額に汗が垂れた、本当に実行するつもりなのかこの人。

「おはよう、五十嵐さん」

 背後から声を掛けられ、驚いてスマホを伏せた。振り返ると、一人の男性が立っていた。

「徳島さん、おはようございます」

 立っていたのは社員の徳島さんだった。年齢は四十前半だっただろうか。優しそうな垂れ目が印象的な人で、見た目通り上司にも部下にも親切な人だ。彼は母が生きていた頃から信頼され、うちの会社を引っ張ってくれていた人だ。

 それは母が亡くなってからもだった。彼がいなくては、もううちの会社はとっくにつぶれていたかもしれない。父の無茶苦茶な経営を、何とかバランスを取りながら正そうと懸命に動いてくれた人だ。私が入社した後も、たくさんお世話になっており頭が上がらない。

 結婚もしてお子さんもいらっしゃる人だが、頭のイカれた実父より、徳島さんの方が父親のように感じている。

 彼は私の隣のデスクに腰かけると、やや声をひそめて言った。

「なんかさ、朝からいろんな噂が出回ってるんだよ。買収の話が無くなった、っていう噂がさ」

 ドキッとした。あまり規模も大きくないうちの会社、経営が危ないということはとっくに知れ渡っていた。そして買収の話があったことも。社内はもちろんそのことで大騒ぎだった。でも、買収ならよかったと胸を撫でおろす人たちがほとんどだった。

 それが一転。父はなるべく誰にも知られないよう進めた八神との話。それがもう知れ渡っているなんて。

 私はどう答えていいか分からず俯いた。

「噂は一人歩き回っててね、買収はなくなったけど、倒産ってわけでもなさそう、っていうのが大体共通してる。何か知ってる?」

 困って視線を泳がせた。無くなったんです、そして八神から援助を受けて、またあの父の横暴な経営が続く予定なんです。……そんなこと、言えるだろうか。条件は私の結婚です、なんてことも。

 自分の計画もまるでうまく行っていない今、彼に言える自信がない。

「……買収を父が断ったのは、本当みたいです」

「え?」

「そして、倒産はしばらくは大丈夫、っていうのも本当です。ただ、父が経営していくのは変わりないので」

「また傾くのも時間の問題……ってことか」

 徳島さんの表情が暗くなる。私は慌てて言った。

「でも、まだ決まってないです! もしかしたら、まだ買収の方にいくかも」

「そうなの?」

「はい。まだ何も分からないんです」

 彼は黙って腕を組んだ。じっと考えるようにしている。その表情が、私の誤魔化しを見抜いているような気がしてドキドキする。徳島さんは信頼できる人だから、全部説明してもよかった。でも、今はまだ言えそうにない。
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