あなたに嫌われたいんです
 するとその時、突然苦しさが解放された。頬にあった金属の感触も消え、はっと目を開ける。背後で大きな物音と、低い唸り声が聞こえてきたので振り返る。

 男は地面に押さえつけられていた。その鼻からは赤い血が出ていて、さらに頬も赤くなっていたので、殴られたのだと憶測した。獣のような表情で歯を食いしばっている。

 だが私が驚いたのは、その男を押さえつけている人の姿が目に入ったからだ。警察では、なかった。

「……理人、さん?」

 見たことのない形相で男を見下げていたのは理人さんだった。彼は怒りと憎しみを合わせたような顔で男を睨みつけている。待ち合わせ場所とは違うここに、彼がなぜいるんだろう。

 唖然としている私に、彼はいたって冷静に言った。

「すみません京香さん、ナイフを回収してもらえますか」

 あっと思い足元を見ると、少し離れたところにナイフが転がっていた。私は慌ててそれを拾い、折り畳みだったので刃をしまった。

「京香さん、怪我は」

「い、いえ、何も」

 私が答えると、険しかった彼の表情がほんの少しだけ緩んだ。そのわずかな変化に、なぜか胸が締め付けられるような感覚に包まれる。

「よかった」

 吐かれた息とともに、そんな言葉が流れてくる。私は言いたいことがたくさんあったのに、何も言葉が出てこなかった。お礼を言いたい、なぜここにいるのか聞きたい、でもただただ胸がいっぱいだった。

 彼の顔を見て、全身に広がる安堵感に溺れる。

「京香さん、警察に」

 理人さんが言いかけた時だった。ようやく、サイレンの音が響いてきたのだった。





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