あなたに嫌われたいんです
過去の話
彼の顔が離れたところで、私はようやく反応した。掴まれていた腕を振り払い、押しのけて立ち上がった。
結婚はだめだ、駄目なんだ。理人さんから断って貰いたくて今までやってきたのに、こっちがのめり込んで何をしてるんだ。結局、まだこの結婚の裏も分かっていないというのに。
私から離れた彼は、少し困ったようにこちらを見ていた。私はそれを見ないようにして、何も言わずにリビングから出た。これ以上一緒にいては、絶対にペースに飲み込まれると分かっていたから。背中に理人さんの声を聞いた気がしたけれど、振り返らなかった。
彼がキスをした理由は、分からない。
私がそんなに好きを漏らしてしまっていたんだろうか。顔に出るほどに? だとしても、そこでなぜ彼が手を出す? そりゃ男性は、好きでもない女にあれこれできるっていうけど。
どうして……あんなに。
部屋に一人こもった後、いろんな感情で爆発しそうだった。嬉しさや、疑問や、胸の苦しさ、これからどうしていいのか分からない戸惑い。
自分は本当にハマってしまったんだという後悔。
翌朝、私はリビングに顔を出すことなくそのまま家を出た。朝ごはんをちゃんと食べるという約束は破られてしまった。
逃げるように駅まで歩いていると、理人さんからラインが来ていた。でも内容を確認する勇気がなかった私は、そのまま見ずにスマホをしまい込んだ。昨日あんなことがあって、何を話していいのか分からない。
これが普通の男女の関係だったなら。私は正直に気持ちを伝えて、相手の気持ちも問いただしただろう。でもそれは出来ないのだ。このよくわからない婚約関係で、自分がどう動くのか正解なのかまるで分からない。
電車に揺られ会社へ急ぐ。動くたび足や背中の傷が痛み、嫌でも昨晩のことが思い出されて嫌になる。
出社した後も、スマホは光っていた。今日も一時間に一度の連絡を忠実に守ってくれているようだ。ラインが届くたび胸が痛み、苦しくなる。邪念を捨てて仕事に専念した。昨日できなかった残業、今日頑張ってやらなきゃ。
送られたメッセージは読む気になれない。未読のまま放置しておく。
と、再度画面が光った。理人さんだろう、と思ってちらりとロック画面を見てみると、思っていた人とは違った。梨々子だったのだ。メッセージの前半が目に入っただけで嫌な予感がした。
とりあえず開いてみる。