あなたに嫌われたいんです
仕事は切り上げて、私はあのマンションに急いでいた。
これが最後のチャンスだと思った。家の鍵を返してしまっては、理人さんとなんて何も接点がなくなる。今までのふるまいも謝りたい。思えば昨日は混乱して、婚約破棄してほしいという趣旨しか言えてない。
ちゃんと向かい合って話し合わないと駄目だと思っていた。
電車を降りて高層マンションへ向かった。辺りは少し薄暗くなってきたぐらいだ。気温と、自分が急いでいるのもあってじんわりと汗をかく。額に張り付いた前髪を少し手で誤魔化しながら、ひたすら足を動かした。すれ違う人たちは、私の勢いにやや道を開けてくれるそぶりを見せたくらいだ。
ようやくたどり着き鍵を使って部屋に入ってみると、まだ理人さんは帰っていないようだった。私が作っておいた朝食はそのまま置いてあり、食べる人が現れなかったそれらが哀れに見えた。理人さんが作ってくれた朝食はあんなに美味しかったのに、私が作ったものは何も美味しそうに見えない。
ため息をついた。ふらふらした足取りでそれらを持ち、生ごみとして捨てる。食べ物を粗末にしてしまったことを心で謝り、私はお皿を洗った。
「あ、荷物」
まとめないといけない。とはいえ、元々少なかったし、ここにいた期間も短いので、大した労働力ではなかった。理人さんに買ってもらった化粧品や服は鞄には入れなかった。私がこれを持ち帰っていいわけない。とはいえ、置いて行かれても困るか……どうするのが一番いいんだろう。
多分、彼は「あげます」って簡単に言うんだろう。でももし貰っても、梨々子にまたとられるだけだし、何より理人さんとの生活を思い出してしまいそうで辛かった。
困った。
腕を組んで悩みながら部屋を見渡すと、ほんの一週間も使っていない部屋が酷く愛しく思えた。彼が準備してくれたドレッサーに化粧品、白いシーツにベッド。結局私は、一度もお礼を言えていない。
自分の腕をぎゅっと掴んだ。最後に色々伝えなきゃ。理人さんの思っていることもちゃんと聞きたい。これから会社をどうしていくつもりなのか……教えてもらえないのかな。でも、昨晩の彼の様子は絶対に悪人なんかじゃなかった。
祈るような気持ちで理人さんを思っていると、玄関の方からガチャッと音がした。はっとし、慌てて部屋から飛び出す。
「理人さん!」
廊下に出た瞬間目に入った光景を見て、私は全身を硬直させた。
「あ、お姉ちゃーん!」
彼の隣には、笑顔で立っている梨々子がいたのだ。瞬きすら忘れ、その子の顔を凝視した。
……なんで、梨々子が?