あなたに嫌われたいんです
本当のこと
部屋の前に梨々子はもういなかった。あれだけ呼んでも出てこない私を待ち続けるなんて、あの子のプライドが許さないだろう。きっとぶつくさ言いながら一旦帰ったに違いない。
理人さんは私を助手席に乗せると、すぐさま車を発進させた。安全運転だけど、どこか焦っているようにも感じる様子だった。私は何か声を掛けようとしたが、何も言えず黙り込む。
一体どこに連れていかれるのだろう、とそわそわしていると、案外目的地はすぐ現れた。
窓から見える夜の中に、大きなビルがそびえたつのが見える。首を持ち上げて見上げなければならないほどの大きな会社だ。それを見た途端唾液をごくんと派手に飲み込んだ。
八神グループ本社だ。
うちの会社とは比べものにならないほどの規模。未だ働いている人もいるらしく、窓からは電気のあかりが漏れている。大きな玄関から、人々が次々出てくるのが見えた。
「り、理人さん、こ、ここ」
「入りますよ」
彼は私の言葉に被せるように車を駐車場に入れた。私は背中を背もたれから浮かせ、ピシッと姿勢を保持した。緊張から汗が凄い。祖父が怒鳴り込みに行ったときはここまで大きくなかったと鬼頭さんは言っていたけれど、でもやっぱり他社に怒鳴り込みに行くって、おじいちゃん何者なのよ。さすがの私もそんなことできそうにない。
慣れた様子で駐車させた理人さんは、私とともに車から降りる。そしてすぐさま足を踏み出し、ポケットからスマホを取り出すとどこかへ電話を掛けだした。
「もしもし? ちょっと今から少し会ってほしい人がいる。うん、そのまま待っててほしい。あまり時間は取らせない」
早口で誰かに告げる。私は理人さんの背中に必死について行きながら、電話の相手が誰なのか感づいていた。男性の声だった。
社内に足を踏み入れる。うちとまるで違う綺麗さ、広さ、豪華さ。例えばテレビドラマで一流企業、という設定の主人公が出てきたとしたら、間違いなくここがモデルになるだろう。そういう場所なのだ。
自分が場違いな気がして俯いた。さらに、すれ違う人は理人さんに会釈したりする人もいて、さらに恐縮してしまう。私、凄い人と歩いているんだな。
エレベーターで地上とさよならをし、降りた先の長い廊下を突き進む。そしてようやくたどり着いたところには、やはり『社長室』の文字があり、意識を手放すかと思った。
理人さんは適当な様子でノックをする。そして向こうの返事も聞かず、扉を思いきり開けたのだ。
見えた中は、すべて上質と分かる物に囲まれていた。ソファも、飾られた絵も、敷かれた絨毯でさえ、うちの会社とまるで雰囲気の違う佇まい。
部屋の窓際に置かれた重厚感ある机に、一人の男性が座っていた。実際は会ったことのない、八神社長だった。
年は六十半ばほどか。グレーの髪色はしっかりまとめられ、清潔感に満ちていた。真っ黒なスーツに身を包み、立派な眉を少し動かし、私の方を見る。
「理人」
そう声を掛けながら立ち上がる。それだけの動作で、なんだか敵わない、と思った。それほどに知性や威圧感を感じる人だった。
「仕事中ごめん」
「いや、それはいい」
八神社長はちらりと私を見た。心臓が飛び跳ねる。それでも、決して舐められてはならないと自分に言い聞かせ、しっかり胸を張った。すうっと八神社長の目が細くなる。
「その人はもしや」
「五十嵐京香さんです」
理人さんがそう答えた。私は頭を下げる。
一体どんな反応をされるか。まずは挨拶をせねばならない、でもなんといえばいいのだ。援助についてお礼? 結婚を断ったことに対する謝罪? 手のひらは汗でぐっしょりだ。