あなたに嫌われたいんです
 そうふざけたように言った彼は子供みたいだった。私も釣られて笑う。爆発しそうなのはこっちなのだ、だってこんな形で思いが実るなんて思っていなかったから。

 笑った私の頬を、彼はそっと触れた。その瞬間、笑みなど吹き飛んで再び心臓が痛くなる。熱くて大きな手が、控えめに私の頬を撫でた。

「もう一度謝ります、騙して結婚話を持ち掛けてすみませんでした。初めにすべて話して嫌われるのが怖かったんです」

「だから謝罪はいりません、私だって自分の気持ちを隠して自分を偽っていたから」

「これで僕はもう隠し事はない。
 あなたが好きだ。京香さん、僕と結婚を前提に付き合ってくれますか」

 真っすぐ言ってくれた言葉はストレートで飾り気もないもの。でもそれが、シンプルで理人さんらしいと思った。

 急に喜びの波が襲ってきて涙腺が緩んだ。泣きそうになったのを必死にこらえ、私は頷いて見せる。

「私なんかでよければ……」

「なんか、って。京香さん以上面白い人いませんよ」

「面白い?」

「あ、そうだ一個訂正しなくちゃ。
 僕普段は値札を見ず棚買いなんてしません。京香さんが言いたそうにしてたからあんな風にしてみただけ。今度はちゃんとゆっくり買い物しましょうね」

「え! そ、そういえばとんでもないお金を遣わせてしまって私というやつは!」

「最高に楽しかったからいいんです。お礼ももらったし」

「あああ! あのハンカチ、めちゃくちゃ安物で……こ、今度リベンジさせてください、あんなもの恥ずかしくてっ」

「あれで十分なのに? でも、お礼したいというなら今ください」

 そういった彼は、私の返事も聞かずに強く口づけた。一昨日貰ったものよりずっと熱いキスだった。

 突然のことに驚き、されるがまま動けなくなった私に、彼は何度も繰り返す。幸せだとか、恥ずかしいだとか、そんな色々な感情が自分の中で渦巻く。

 一瞬離れたときに見えた理人さんの顔は、どこか余裕のなさそうな表情だった。隠していた狼の顔を垣間見た気がする、そんな顔だ。

 それを隠すかのように、再び彼は私に唇を重ねる。ついて行くのに必死だった。彼から溢れて伝わる愛しいの感情を受け止め、私も伝わればいいのにと思った。吐息が漏れるたび、体温が上昇する気がする。

 そのまま力に押されてソファに倒れこんだ。冷たい革の感覚を背中に感じる。と同時に、一昨日怪我した部分が少しだけ痛んだ。

 今だ降り続けるキスに必死に答えていると、ふとそれが止まった。目を開けてみる。見上げた理人さんは、黒髪を垂らしたまま私を見下ろしていた。
 
「……駄目だ、がっついて恥ずかしい」

 そう呟いた理人さんは、困ったように眉を下げて体を起こした。そして息を吐いて言う。

「京香さんまだ怪我も完治してないだろうし、何よりあなたの会社について何も解決していない。僕はあなたのことになると我を失う」

 恥ずかしそうにつぶやいた理人さんに、がっついてくれてよかったのに、と言おうとして辞めた。さすがの私もそんなことは言えない。なんだか恥ずかしくなってそそくさと体を起こして座った。

 そう、それに、確かに彼が言うように片付いていないことがまだある。

「理人さん、さっきは考えがある、って言ってましたけど、何かうちの会社を救える方法はありますか? 実は、社員のみんなも買収の話が無くなりこのまま経営が続くって知れ渡って、多くの人が退職しようとしてるみたいなんです」

「え? 退職?」

 彼が目を丸くする。私は頷いた。

「元々、みんないい人たちで母や祖父にお世話になったから、とかそういう優しい理由で留まってくれてたんです。残業させまくりでそのくせ残業代も出ないし、給与も以前よりずっと悪くなってるのに。だから、残ってくれてるだけで奇跡なんです。ここにきて、もうみんな我慢の限界っていう感じで……」

 理人さんが考えるように腕を組む。私は言った。

「このまま援助を切って貰えば、父もそう自由に動けない、とは思うんですが」

「まあ援助を切るのは簡単なことです。
 ですが京香さん、あなたの一番理想的な形を教えてください」

「え? だからそれは、買収されて父の経営を終わりに」

「それが本当に一番理想の形ですか? おじいさまやお母様が残してくれたもの。
 最もいい形は、『あの会社を残しつつ父親を退ける』なのでは?」

 そういわれて目が点になった。思ってもみない話だったからだ。完全に自分の頭からはなくなってしまっていた、一番平和な方法。

 そりゃそうに決まってる。母が生きていた頃のように、小さくてもみんな楽しく和やかに働いていけたら。それが一番夢に描く図だ。

 だが私は小さく首を振った。

「そりゃそうです。でも、それはあまりに欲張りすぎです。私はとにかく、みんなが穏やかに過ごせる環境が欲しい」

 理人さんがじっとこちらを見る。不思議な瞳の色に吸い込まれそうだと思った。彼は何も言わないまま何度か小さく頷く。そして決意したように立ち上がった。

「ちょっと父と電話してきます」

「あ、は、はい……」

「京香さん、あなたの話を聞く限り、社員のみなさんは社長よりあなたの方をずっと信頼しているようだ。
 あなたにも協力してもらいます」

 そんな彼をただ見上げているしかできず、私はぽかんとしながらとりあえず頷くしかできなかった。

 
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