あなたに嫌われたいんです
 昨晩理人さんは言った。すべてが片付くまではとりあえず部屋はこのままで寝よう、と。一件落着したわけではないが、できることはし尽くした。

 彼は一瞬驚いたように目を丸くさせた。少し間があったあと、やや困ったように視線を泳がせる。

「あーえっと、京香さん」

「はい」

「正直に言うけど、今すでに自分はぎりぎりの状態なので。
 部屋を一緒にして寝るだけなんて、終わらないですよ」

 苦笑いして言ったその声は、確かにあまり余裕がなさそうな声だった。

 それでも私は裾を離さなかった。学生でもあるまいし、そんなこと分かって言っているのに。

「私……もう、怪我は痛まないですよ」

 そう返事を返した。

 理人さんはまた目を見開いた。そのまま少し停止したかと思うと、次の瞬間、小さく息を吐いた。そして天井を仰ぐと、小さな声で呟く。

「これだ。とんでもない人だ」

 そう言った途端、私においかぶさるようにしてキスを落とした。彼の着ている黒い服を必死に握りしめながら、何とか応えた。

 息もするのを忘れるほどのキスを繰り返したあと、顔が離れる。理人さんは口角を吊り上げて言った。

「そういうことなら、手加減はなしで」

 意地悪そうに言う彼に、つい顔を熱くした。私は慌てて言う。

「い、いや、手加減はしてください!」

「だって京香さん体の相性が重要なんでしょう? 判断してもらわないと」

「! いじわる言わないでください!」

「性に奔放らしいので、そちらのお手並みも」

「やめてくださいよちょっと!!」

 私が怒るのを笑ってみている。その笑顔は出会った時から変わらない、嘘偽りない笑顔。

 私の手を握った。大きくて熱い手に包まれる。

「じゃあ、部屋に行きましょう」
 
 明日は寝坊してもいいですからね、と彼は付け加えた。







 それから父はわりと素直に経営から退いた。

 そして約一か月後、理人さんに仕事の紹介を頼むと連絡が行った。この一か月で再就職先を探し回ったが、案の定いいところはどこも雇ってくれなかったようだ。

 結局三人揃って実家の家から出て行った。そのままF県の社宅に住み、義母も梨々子も仕事を探しに出たそうだ。奪われた私物や母の形見はしっかり戻ってきた。


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