星のゆくすえ

陰謀の渦へ

マーシャは図書の整理に励んでいた。

ロクサーヌからは今日は休んだほうが良いと助言されたが、皆が働いているのにそういうわけにもいかないと、頑なに日課を勤められるよう頼んだ。
その甲斐あってラノンから許可は出たが、畑仕事のような重労働ではなく、あまり動かずにすむだろう図書の整理を日課として与えられたと、ロクサーヌを通じて伝えられた。
それを聞いて内心しょぼくれながらも、責任を果たそうと、寄宿舎の自室くらいの広さの図書室で、(かび)の臭いがする蔵書目録と埃っぽい背表紙を交互に睨みつけているのだった。

(情けない、もう克服したと思っていたのに)

ルネとの唐突な別れから一年後、父の留守をついて、屋敷に夜盗が押しいってきた日ーーマーシャの世界は一変してしまった。

婆やがマーシャを庇い、大怪我を負ったのだ。

階下の騒ぎに何事かと降りてきたマーシャを、夜盗一味の一人が目敏く見つけ、人質にしようと迫った。マーシャは勇敢にも手元のランプを相手に投げつけ、踵を返して逃げようとした。
それが相手の激昂を誘った。
男は走りながら剣を抜き、マーシャに切りかかった。体格や歩幅から見ても、マーシャが逃げたり避けたりするのは不可能だっただろう。横やりがなければ、の話だが。
横やりーー婆やが二人の間に入ったのだ。
婆やはマーシャを後ろから抱きかかえるようにして守った。マーシャの心身はあまりの事態に限界を迎え、そのまま気を失った。

(あの事件で死んだ人はいない、夜盗は近くの町の騎士団が全員捕まえてくれた)

マーシャは“聖者と星”とタイトルを打たれた背表紙に指を這わせた。

(何も、怖いことなんてない。何も)

「そうよね、ルネ」

思わず口に出してしまい、マーシャは慌てて口元を抑えた。今日は本当にどうかしてる。マーシャは自分の醜態にそう辟易して、目頭を軽く揉もうとした。
その時だった。

コンコン、と軽いノックが聞こえてきた。

「どうぞ」

マーシャは何でもない風を装ってノックした人物に声をかけた。返事はなく、部屋に入ってくる様子もない。
マーシャは首を傾げてドアを開けた。廊下を見渡しても誰もいない。こんな場所までやってくるのはアルフィネたち年嵩のシスターたちくらいのものだが、彼女たちがこんな拙い悪戯をするはずもないしーーマーシャがそう考えながらなんとなく視線を下ろすと、小さな羊皮紙が落ちていた。

(掃除のし忘れかしら?)

マーシャは羊皮紙を摘みあげると、自身の予想が外れていることを知った。

『シスター・マーシャ
 貴女を脅かしてしまい
 心からお詫び申し上げます
 どうか貴女が、心穏やかに祈りの日々を
 過ごせますよう』

マーシャは流麗に綴られた文字を見つめた。青い瞳には感情こそ浮かばなかったが、羊皮紙を袖の中に入れてしまうと、図書室に戻って作業の続きに勤しんだ。

その日の夜。
全員での祈りを始める前に、ラノンは最近変わったことはなかったかと皆に聞いていたが、誰も声をあげなかった。ラノンはそれ以上聞こうとせず、もしも何か思い出したら自分に報告するように、と締めくくり、いつも通りに夜の祈りを始めた。

祈りが終わり、寄宿舎に帰る道すがら、マリーベルはマーシャの体調を心配した。

「もう大丈夫よ、ありがとう」
「どういたしまして」

二人の会話を聞きつけたロクサーヌが、すかさず近寄った。話したくてうずうずしてますと言わんばかりだ。

「それにしても、ここもきな臭くなったわよね。人買いが逃げてくるって」

アルフィネが三人が歩いているほうへ顔を向けた。三人はすました顔をしながら廊下を歩く、互いに目配せをして、これ以上のお喋りは控えようと決めた。

そうして各々が床につき、完全に寝静まった頃、森の暗がりから黒い影がするりと出てきた。森の闇から生まれたようなその影は、礼拝堂の壁に手を二、三分当てると、再び森へと戻っていった。


誰かが自分を揺すってる。ああ、また居眠りしてしまった。朗読の最中に寝てしまうなんていつぶりだろうーーーマーシャは夢うつつにそう思った。
修道院に入った直後は、朗読の時によく船を漕いでは先輩のシスターたちに揺り起こされていたと、思い出に耽ようとしても現実が許してくれない。

「マーシャ、起きて! 火事よ!」

マーシャは飛びおき状況を確認した。ロクサーヌが見事な赤毛を振り乱してマーシャの肩をつかんでいる。パチパチと何かが爆ぜる音と連動するように、焦臭さが鼻についた。

「ラノン院長が…!」

ロクサーヌが泣き叫ぶように言うと、マーシャは裸足で部屋を飛びだした。他のシスターたちの白い寝衣が目に入り、ロクサーヌが後に続く。
外に出たマーシャの顔を熱風が襲った。両手で顔を覆っても息ができず、しゃがみ込み、集団となって大急ぎでその場を離れていく。そこには同じように避難してきたシスターたちが、これ以上火の手が広がらないようにと、村人たちと協力して消火活動を始めていた。
多少は息ができるようになって、マーシャはやっと目を開けて燃え盛る礼拝堂を見上げた。火の塊のようになった礼拝堂が、轟々と音をたて赤とも橙ともつかない炎を巻きあげていた。夜空とも相まってこの世のものとは思えない光景に、マーシャは愕然とするしかなかった。

「院長が、礼拝堂に」

だから、マーシャはロクサーヌの言葉に呆然と耳を傾けていた。

「礼拝堂に、聖者の像があるからって」

炎が揺れる。
そこにマーシャは、確かに人影を見た。
その人影は徐々に、確固として形を持ってマーシャの目の前に現れた。

「ラノン院長!」

誰のものともつかない歓声があがった。黒髪黒目の騎士は、横抱きにしていたラノンをシスターたちと村の医者に預ける。そのまま自身は何を思ったか、井戸の側まで寄っていった。

「水よ!」

決死の声に反応するかのように、井戸から水が渦巻いて、蛇のようにその姿をうねらせて礼拝堂にぶつかった。
火の勢いは明らかに弱まって、村人たちやシスターたちがここぞとばかりに土をかけて完全に消火しようと動く。間もなく、大火は消しとめられ黒い煙が断末魔のように浮かぶだけとなった。

「火が消えたぞ!」
「騎士様のおかげだ!」
「神よ! 巡りあわせに感謝いたします!」

マーシャは気絶したリセラドが、担架で村人たちに運ばれていくのを、黙って見送っていた。
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